思い返してみると、新型コロナ第3波の影響で2020年10月以来のお出かけ。
(訪問は2021年3月)
・・・徐々にブログネタの貯金が無くなってきた(汗
* * * * *
能勢電鉄とバスを利用し、能勢氏の山城・丸山城にやってきた。
前編では東口から登り、本丸まで攻め取った所までだった。。
後編では本丸より北側を探索、西麓へ降りていってみたく。
↓本丸からの眺望(東)
本丸より東側は木々が間引かれており、眺望が開けている。
そう遠くない場所に「地黄城跡(じおうじょうあと)」が見えている(学校の校舎みたいなんが見える所)。
今日、この後訪れる所存だ。
↓本丸からの眺望(南)
本丸の南端まで行くと、すぐ下に前編で見てきた元丸山神社の祠、奥には三ノ丸跡が見えた。
↓本丸南側切岸
本丸から降り、大手道出口まで戻ってきた。
道の先に丸山神社、左の高まりが本丸。
↓帯曲輪(西側)
↓小動物のねぐらか
たぬきかなにかの寝ぐらのように思える。
↓竪堀
帯曲輪西の竪堀(たてぼり)だが、枯れ木などがいっぱい倒れてたりして、よくわからなかった。
↓武者隠し
帯曲輪西北をちょっと降りた所にある「武者隠し(むしゃがくし)」。
確かに帯曲輪からは少し死角になっていた。
本丸虎口に敵が殺到したとき、わっと飛び出し背後を襲う仕掛け。
↓堀切
本丸エリアから北の曲輪との間を断ち切り、北から峰づたいに攻めるのを妨げる。
↓本丸北切岸
北の曲輪へ行くには、堀底に降り、一旦坂を下っていく形になる。
本丸方面を見返すと、超高い切岸となっている事に気付く。
↓大堀切
素晴らしいV字だ。
さらに下っていく。
切岸はさらに高く、本丸はさらにはるか上となってきた。圧巻だ。
↓天王丸の北端から北下を見下ろす
眼下には道路が見えた。城の北はここまでだったのだろうか。
↓天王丸腰曲輪
天王丸(てんのうまる)を左から回り込むと、一段低い狭い平坦なスペースに出た。
↓西下から堀切を見上げる
再び堀の脇の道へと戻り、竪堀状に落ちていってる堀を見ながら西北の麓へ。
↓西下から見上げる二条の堀切
麓沿いの道をやや南へ。要図では3条の堀切があるとの事だったが、よくわからない。
そのうちの2条かと思うのだが、雨水が流れて削られただけのようにも思える。
↓キノコ
キノコの栽培をしているようなスペースに出た。
↓丸山西麓のようす
ようやく歩き易い道に出た。
こんな感じの道を、ずんずん南へ進む(向こうからきて振り返った所)。
↓清普寺_遠望
丸山の西は、山あいに畑が広がるエリアだ。
いや~、のどかだな~。。
大きな屋根が見えるが、あれが能勢氏の菩提寺(ぼだいじ)「清普寺」か。
のちほど行くとしよう。。
↓石造九重塔
南端近くまで進むと・・・何だこれ
事前に全くその存在を知らなかった史跡にばったり遭遇。
東郷城山の「石造九重塔」。
↓石造九重塔_説明
1288(弘安11)年の造立とな(基礎部分に刻印されている)、鎌倉時代やな、ふるっ
経済的な余裕がないと、こんな立派な塔はまず造れないという。
・・・能勢氏、ハンパないって。初代か誰かの供養塔やろーか
なお説明板の写真と比べると、実物は塔の上の部分(相輪という)がなく、左地面に置かれている。
地震とかで折れたのだろうか。そーいや塔自体も傾いているような。
相輪のさらに先っちょは、もともと欠損し、右横で倒れかけているやつか。
↓椿の花
花言葉は「控えめな素晴らしさ」。
関係ないが「椿の花咲く頃」は韓ドラ。シングルマザーに恋する物語だった。
↓大手門跡
丸山城の本来の大手道は、山の西にあると書いたが、
ここが大手門のようだ(石造九重塔のすぐ横から見えた)。
↓倒れていた標木
「史跡 城山城跡」と書かれた標木は、無残に折れて地面に横たわっていた。
兵どもが夢の跡・・・落城したのだろうか。
「城山城跡」って、どっかで見たのと同じ表現・・・芥川山城だっけか
芥川山城も、たしか能勢氏分流が築いたのでは・・・単なる偶然だろうか
↓大手道を見上げる
大手道はさらに二ノ丸へと繋がっているだろうけど、しんどいのでもう登らないでおく。
↓九重塔への案内
一旦、東の川の所まで戻って、清普寺に向かう。
道中、九重の塔の案内がついていた。
清普寺へつづく。。。