二条城!!!~その2./4回 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

~二条城の歴史アラカルト~

  • 1603(慶長8)年、家康、天下普請にて二条城が完成。

  • 1611(慶長16)年、家康、豊臣秀頼と会見。

  • 1614(慶長19)年、大坂の陣の軍議を行う。二条城より出陣。
  • 1626(寛永3)年、3代将軍・家光、城の拡張・整備を完了。後水尾天皇行幸。
  • 1750~1788年、雷雷、大火により天守閣、本丸御殿など焼失メラメラ
  • 1863(文久3)年、14代・家茂が入城(家光以来)。
  • 1867(慶応3)年、15代・慶喜、大政奉還。
  • 1884(明治17)年、皇室の別邸・二条離宮となる。
  • 1915(大正4)年、大正天皇即位の饗応が行われる。
  • 1940(昭和15)年、一般公開される。

 

↓清流園(せいりゅうえん)

清流園

1965年、造成された庭園。

1915年には一時、大正天皇即位の饗応ナイフとフォークの施設が造営された。

 

庭園は和洋折衷の造り。

写真は、東半分の、芝生を敷き詰めた洋風庭園側コーヒー

 

↓香雲亭(こううんてい)

香雲亭

こちらが西半分の、池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園=和風庭園お茶

香雲亭は、旧角倉了以(つのくらりょうい)屋敷から移築したもの。

 

これとは別に、「和楽庵」という建物も、やはり同所より移築。

 

↓内堀(東側)

内堀(東側)

城内を北回り(反時計回り時計)に来て本丸に近付いてきた。

本丸を取り囲む内堀も、四方ぐるりで残されている。

 

正面に右手の本丸への虎口である「本丸櫓門」が見えた。

 

↓北中仕切門(きたなかしきりもん)

北中仕切門

すぐに本丸、行かんのかいビックリマーク

 

本丸の北を回り込むようにして西進、先に「北中仕切門」を見ておこう。

本丸の南にある南中仕切門と対手袋になっている。

ここで本丸西櫓門への通行を妨げてパーいる。

 

ちょいと写真だけ撮ってすぐ引き返そうと思ってたが、砂利道が思った以上に歩きづらく、ここらでパシャリ。。

と、カップルが出てきて、文春砲カメラみたいになっちゃった。。。

 

↓マガモ

マガモ

メス?堀に生息しているのだろうか。人間を気にする事もなく、横を歩いていた。

 

・・・彼女は、砂利道は苦ではないのだろうかはてなマーク

 

↓鳴子門(なるこもん)

鳴子門

南の桃山門と対になって、本丸東櫓門への通行を遮断。

門の形式は四脚門(よつあしもん)。さほど頑丈な門には見えない。

 

↓鳴子門(裏)

鳴子門(裏)

1626年頃の建築。重要文化財。

 

近付いて見る。城外側にも小さくだが控柱(ひかえばしら)が出ているのがわかる。

城内に使われる形式としては、珍しいものらしい。

 

↓本丸櫓門(やぐらもん)

本丸櫓門

ようやく本丸への入口までたどりついた。

 

やはり1626年頃の建築で、重要文化財。

戦時には木橋を落として、敵が渡れないようにできる。

寛永の後水尾天皇行幸の時には、二階橋だったようで、二の丸御殿から地上を歩くことなく、天守まで行くことができたというびっくり

 

↓二条城案内マップ(下半分)

二条城案内マップ(下半分)

橋を渡る前にあった城内マップ。右が北。

写真上の本丸櫓門前が現在地。

 

こうして見ると、順路を全く無視していたようだ。今さら地図出されてもねえ・・・ショボーン

 

↓二条城案内マップ(上半分)

二条城案内マップ(上半分)

本丸まで来た、つっても本丸御殿は工事中、天守があるわけでもないが、とにかく本丸を落とさずにはいられない。

 

↓本丸櫓門_正面

本丸櫓門_正面

徳川家光が造営した本丸内の建物のうち、「天明の大火」で唯一焼け残った遺構。

 

通常なら、この辺も人がたくさんいるのだろうが、この日はご覧のようにまばらにしかいない。

 

↓櫓門の階段

櫓門の階段

櫓の二階へ上がる階段。

櫓正面の上半分は今はただの壁となっているが、二階橋からの入口があったはずだ。

 

↓櫓門の門扉

櫓門の門扉

門扉は銅板で固められ、火器にも耐えうる。

 

↓多聞櫓石垣の刻印

多聞櫓石垣の刻印

 

↓多聞櫓石垣を本丸内より

多聞櫓石垣を本丸内より

普通はこの上に櫓を渡し、下を門とするものだが・・・

この石垣の上にはかつて多聞櫓が乗っかり、櫓門の二階部(奥に屋根が見えている)と連結していたようだ。

城内側は枡形の構造になって(内枡形)、埋門(うずみもん)の形式となっている照れ

 

石垣が黒ずんでいるのは、天明の大火の時に焼けただれた箇所。

 

↓本丸御殿(工事中)

本丸御殿(工事中)

「二条離宮」であった1893年、京都御所から移築。重文。

残念な姿プンプンだが、完成が楽しみでもある。

 

↓天守閣跡_説明

天守閣跡_説明

1626(寛永3)年、伏見城から移築(たぶん)の五重の天守があり、

天皇が登った唯一の天守(寛永行幸で後水尾天皇が)だったが、

1750年、落雷雷により焼失メラメラしてしまった。

 

その前の天守は(大和郡山城より移築か)清流園のあたりにあったが、拡張の際、淀城へ移された。

 

↓本丸西門橋_天守台より

本丸西門橋_天守台より

天守台に登る。なかなかの高さで、もし天守があったなら相当よい景色が拝めたであろう。

 

西側にある本丸西門橋。こちらは本丸の搦手口で櫓門とは反対側になる。

天守台降りたら、あそこから出ようっと。

 

↓西南隅櫓(せいなんすみやぐら)_天守台より

西南隅櫓_天守台より

天守は本丸の中の、西南隅部にあるため、「西南隅櫓」が見えた。

現存する2棟の隅櫓のうちのもうひとつだ。。

といっても樹木霧が生い茂ってあまり見えない。後で見に行こう。

 

↓内堀(南側)_天守台より

内堀(南側)_天守台より

左が本丸。天守台も高いが、本丸を囲む石垣もなかなかに高い。

かつてはこの石垣の上には多聞櫓が立ち、本丸を囲んでいたというから、もう鉄壁ビックリマーク

石垣の一番奥には二重櫓もあった。

 

↓雁木(がんき)_天守台より

雁木(がんき)_天守台より

少し左へ寄ると、多聞櫓へ登るための「雁木(がんき)」が設けられている。

かつては樹木などで見えなかったらしい。。

本丸内左端、工事中の本丸御殿がちょっとだけ写っている。

 

↓西門石垣_本丸内より

西門石垣_本丸内より

それでは本丸から脱出し、西南隅櫓を見に行くとしよう。

西門を出るにも真っ直ぐ出られない仕組み。

 

 

 

つづく。。。