平氏は「平家」っていうのに、源氏は「源家」っていわないの、何でだろぅ~~
何てふと思ったら、、ちゃんとした理由があった↓

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一ノ谷の戦い史跡めぐりは、まだ終わらない。
再び板宿駅からスタート。。
徒歩4分、駅近の平盛俊堂へ。ここは長田区の西端になる。
↓平盛俊堂
商店街にも近く、わりと町中にあるが周りに溶け込んでいる。
お堂は普段施錠されているようだ。
↓平盛俊の墓_説明
平盛俊は、伊勢平氏に連なる有力家人で、剛勇のものとして清盛からの信頼厚かった人物。
(平家ではない)
一ノ谷の戦では北門(鵯越口)の侍大将を務めた。
↓平盛俊_説明
やがて全ての防衛線が突破されると、逃げても無駄と馬を停めて応戦。
源氏方の猪俣則綱と組討ちとなり、圧倒するも、彼の騙し討ちにあい命を落とす。
この辺はかつて、ため池が多く存在したようだ。
なお、ここから北約2kmの長田区名倉町には、「平盛俊の塚」が立っている。
↓平盛俊の墓
わずかに扉が開くようになっており、隙間から参拝可能だ。
お堂は古いが、地元の方によって堂内は手入れが行き届いているようだ。
石碑と立位像。幾つかの五輪塔や献花も見える。
五輪塔のうち一基は室町期以前のものということだが、さてどれだろうか。
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↓平盛俊塚への道
さっそく名倉にあるという塚を目指す。
板宿駅前から出てるバスの、五位ノ池で乗って9分、名倉町で降りる。
平盛俊の墓と塚を巡るには恰好のバスだ。
大通りを階段の下へとそれ、塚へ向かう。
↓平盛俊塚のある公園が見えてきた
大通りから一転して、静けさ漂う一角に出てきた。
お、あれかな
「摂津名所図会」には、塚を示す印として古松が一株あった、と記される。
・・・2本ある。
↓苅藻川
苅藻川(かるもがわ)は、相当古い川らしく、深い谷底を流れ、ここで大きく湾曲している。
塚のある公園も、苅藻川によって浸食された谷中にあるといってよい。
↓平盛俊塚
立派な松が左と、手前にもあるが、その状況がわかる写真は無い。
川べりに女子高生がポツンと携帯
をいじってて、邪魔で撮影できなかった。
・・・痴漢と間違われても嫌やし。。
名所図会に書かれた時点で古松いうことは、2・3代目だろうか。
↓平盛俊塚
「平盛俊塚」と大書されている。
後ろの住居の窓位置でわかるように、この公園は石垣で少しかさ上げされている。
塚ゆえ高くなっているのだろうか
↓明泉寺附近のようす
平盛俊塚からバスでも行けるが、約7分と近いので、歩いて明泉寺へ向かう。
写真は苅藻川の浸食でできた高低差。
ここから300m北にある、謎の丸山駅の急傾斜バラック集落も、苅藻川の浸食によってできた地形だ。
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↓明泉寺山門
この付近は明泉寺町という。
山門脇には、見事なノウゼンカズラの花?(開花時期が違うな~?)
明泉寺は、鵯越口の守備拠点として平盛俊が布陣した場所だ。
だが、境内には親の代わりに討死したので有名な平知章(ともあきら)の墓がある。
↓明泉寺略縁起
通称は「大日寺」。天平年間、行基(668~749)が西代の蓮池を開削した際の創建と伝わる。牛の寺としても信仰を集める。
もとは、長坂越東山の古明泉寺大日丘の地にあった。
平盛俊が布陣したため、その戦火で焼けてしまった。
1351(観応2)年、赤松光範が今の地に復興。
↓明泉寺本堂
対になっている登り龍が面白い意匠だ。雨水
を逃がす樋(とい)だろうか。
昭和初期に平知章の墓を明泉寺に移設したときの前後に植えられた松があり、それを記念した「平知章思い出の松」石碑があるが、撮りもれた。
↓平知章の墓
左横に「孝子 武蔵守平朝臣知章墓」とある。日清・日露戦争に従軍した小笠原長生の書になる。
知章討死の地、ここより北方の谷・モンナ池辺りの藪の中に塚があったのを、昭和に境内に移し五輪塔を建てたものらしい。
↓平知章公顕彰碑
小笠原長生中将の書による顕彰碑。
親孝行の鏡として持ち上げる事で、当時のプロパガンダに利用したか。
↓平知章孝死之図
父である生田口の大将・平知盛を討たすまいと、子の知章は敵に立ち向かい、監物太郎頼方ともども討ち死にした。
享年は敦盛と同じ16歳。
逃げおおせた知盛の心中は、いかばかりであっただろう。
図の中の左の馬の下の上に覆いかぶさっているのが平知章。児玉党の大将の首を取らんとしているところ。
この直後、自分も敵に刺されてしまい、絶命する。馬上の弓手が監物太郎で、奥の方で海上の船へ逃げる平知盛が描かれている。
知盛は清盛の四男、知章は清盛の孫に当たる。
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↓監物太郎の碑_外観
バス停「大日寺前」より4系統に乗車し、「地下鉄長田駅前」下車、徒歩1分。
お次は駅近の「監物(けんもつ)太郎頼賢の碑」に到着だ。
↓監物太郎頼賢の碑
主従わずか三騎で落ち延びるところ、敵十騎ばかりが追いついた。
平知盛を討たすまいと、弓の名手・監物太郎も敵を射殺した。
しかし知章が討たれ、監物も矢が尽き、抜刀して戦うもやがて左膝を射られ、座したまま屍となる。
二人の命と引き換えに、大将である知盛は無事、逃げおおせる事ができたのだ。
↓監物太郎の碑_説明
市史跡。
「摂津名所図会」の作者・並河誠所(なみかわせいしょ)が、明泉寺から平知章の碑を持ってきた。その時に監物太郎の石碑も、西国街道近くの現在地に整備した。(平知章の碑は「源平勇士の碑」としてこの近くにある)
並河さん、観光事業部の第一人者やん
↓監物太郎の碑
腰から下の病を救う霊験があるとされ、地元では「けんもつさん」と呼ばれ親しまれている。
↓源平合戦勇士の碑_外観
そしてけんもつさんから徒歩2分、前述の「源平合戦勇士の碑」。。
ここには並河誠所が移したという「平知章の碑」と、そのほかの碑も集められている。
↓新湊川
源平合戦勇士の碑は、新湊川の川べりにある。
新湊川は前掲の苅藻川を合わせた下流だ。
↓源平合戦勇士の碑_説明
かつては近くの西国街道に面して存在したが、平知章の碑も後から一緒になり、やがて一箇所に集められたようだ。
道路拡張工事などで、碑は江戸時代あった場所から現在の地に移されている。
↓平知章の碑
それでは細かく見てみよう。並河さんが明泉寺から持ってきた平知章の碑。
まとめると、ここには明泉寺にあった碑が、
明泉寺にはモンナ池の藪にあった墓が、
それぞれ存在している事になる。
↓平通盛らの碑
右から平通盛の碑(越前守三位平通盛碑)、
木村源吾の碑(木村源吾重章之碑)、
猪俣小平六の碑(猪俣小平六則綱之碑)。
平通盛
平教盛の嫡男で清盛の孫。越前国国主。一ノ谷の戦では山の手(鵯越口・夢野)で大将を務める。
義経別動隊に陣を急襲されて総崩れとなり、ちりぢりに東へ落ち、顔面を射られ、湊川の川下で木村三郎成綱らに取り囲まれ討死。
平家物語では、武将としての姿より、愛妻・小宰相とのロマンス
が詳しく語られる。
木村源吾重章
平通盛と刺し違えた人物(謡曲「通盛」)。だが「吾妻鏡」では、木村三郎成綱の子・俊綱が通盛を討ったと記される。
木村は平氏都落ちの時に源氏方に寝返ったという。
猪俣小平六則綱
武蔵七党の一つ、猪俣党の武士。平家の侍大将・平盛俊に組み伏されるも言葉巧みに騙して盛俊を討ち取った。
ちなみに平忠度(あの腕塚の人)を討ち取ったのも、同じ猪俣党の岡部六弥太忠澄だった。
源氏方と平氏方が、敵同士なのに分け隔てなく並んでるぜ珍。。
後世の人にとっては関係なく、いずれも成仏してもらい、供養していけばいいのだから。
・・・って、猪俣さんはここで死んだ訳ではなさそうだが。。
つづく。。。