前回にひきつづき、須磨寺内の史跡。。
↓敦盛首塚へ
敦盛首洗い池の西に、首塚への案内が建っていた。
↓平敦盛公首塚
享年17歳。まだ幼さの残る紅顔の美少年だったという。
↓平敦盛公首塚
須磨浦公園にある胴塚よりは小ぶりだが、五輪塔に立派な屋根まで付いている。
↓平敦盛公首塚_説明
首級は義経本陣の須磨寺へ持ち帰り、池で洗い首実検ののち、熊谷直実が義経の許しを得て供養のため埋葬。
一方、胴体はそのまま討死にした場所に葬られた、という事か。なるほど。
熊谷直実は戦場から青葉の笛などの遺品をも持ち帰り、敦盛の父・経盛に送ってやったという。
笛の名手であったとされる敦盛愛用の「青葉の笛」は、須磨寺内の宝物館に現存する。
後日、伊勢三郎義盛が須磨寺に寄進した、といわれている。
もちろん、見てきたが、写真は遠慮しておいた。
↓謡曲「敦盛」と敦盛首塚
織田信長が歴史ドラマなどで、能を舞うシーンで謡われる有名なフレーズ、
「♪人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり~」
は、民俗芸能「幸若舞(こうわかまい)」の演目「敦盛」(あつもり)の一節。
あれは、平敦盛に関する場面ではなく、敦盛を討った熊谷直実が出家する際の心情をつづったものだ。。
↓須磨寺の絵馬
須磨寺の正式名は「上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)」であるが、古くから「須磨寺」の通称で親しまれてきた。
886(仁和2)年に光孝天皇の勅命で聞鏡上人が建立。
平安時代初め、漁師が和田岬の沖で引き上げた聖観世音像を北峰寺に安置。のち須磨に寺を建立し、それを遷して本尊としたのが始まりとされる。
だが、聖観世音は1169(嘉応元)年に源頼政が安置した、という記録もある。
↓平重衡とらわれの遺跡碑
須磨寺からの帰りは、歩きで5分の山陽電車・須磨寺駅を目指す。
この「平重衡(しげひら)とらわれの遺跡碑」は須磨寺駅のすぐ脇にあるが、お店のノボリや看板の陰に隠れて存在感があまり無い。
↓平重衡とらわれの松跡_説明
1184(寿永3)年、平氏の大将・平重衡(しげひら)は生田の森から須磨まで逃れてきたがついに捕虜となった。
土地の人が哀れに思い名物の濁酒を勧めたところ、重衡はおおいに喜び、
「ささほろや 波ここもとを打ちすぎて 須磨でのむこそ濁酒なれ」の一首を詠んだ。
平重衡は清盛の五男で、猛将として知られていた。
はじめ、兄・知盛とともに生田口の大将として源範頼軍と戦っていたが、知盛の命で夢野口の加勢に向かった。だが、夢野口は落ち、重衡はたった2騎で一ノ谷方面へ逃走、梶原景季と庄高家に捕縛された。
恐らく、源氏方にとって彼の捕縛は一ノ谷の戦いにおける最大の戦果ではなかっただろうか。
その後、彼は鎌倉へ護送され、京の木津川畔で処刑
された。
↓バス停「那須神社前」
須磨寺駅から東へ3駅、板宿駅で下車、バスに乗り込む。
バスに揺られて12分で「那須神社前」で降りた。
↓北向八幡宮・那須神社_参道入口
1185(寿永4)年、屋島の戦い。
源氏方の弓の名人・那須与一。
平家方の船上の軍扇を、「よっぴいてひゃう」と見事に打ち抜いた人。
彼が北向(きたむき)八幡神社を守護神として合戦に望み
見事勝利
。
お礼詣りに訪れたが、病を得てこの地で死去したという。
大正時代になり、与市を祀る那須神社が勧請された。
↓那須与一公墓所へ
参道入口と、道路を挟んで向かい側には那須与一の墓がある。
ノボリがたくさん立てられているので、すぐわかったよ~。
↓那須与一の墓_説明
この墓をお参りしておくと、ジジィになってOMTしなくて済むだと~。
それは、ゼヒ。。
↓那須与一の墓
ん扉は固く閉ざされておる。
↓那須与一の墓_内部
では、恐れ多くも隙間からお参りするとしよう。。
↓平忠度腕塚堂_看板
再び板宿駅へ戻るバスに乗り、板宿駅前で降りずにそのまま南下、「大橋9丁目」ゆうトコで下車。
徒歩10分。この看板を見つけたら左手の細い路地をどんどん奥へ。
↓平忠度 腕塚
本当にこんな所に史跡があるのかと疑い出したその時、、
細い道に面した家の玄関先みたいなトコに発見。。・・・これかっっ
↓平忠度 腕塚
人の家の庭に入っていくような、思い切った気持ちで踏み込む。
と、サンルーフで隠れていた最上段までその姿が現れた。
↓平忠度御廟所_改造修築の碑
家みたいなのが「腕塚堂」といわれるもので、それの改造・修築を記念した碑が足元に。
↓腕塚堂_説明
平忠度(ただのり)は、一ノ谷陣の守将を務めた清盛の末弟(異母弟)。
駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏の武将・岡部忠澄の首を討ち取ろうとしたところ、岡部の家臣に右腕を切り落とされてしまい、観念した。この腕塚はその腕を埋めた所、と言い伝えられている。
↓平忠度 胴塚へ
腕塚から徒歩4分。こちらには忠度の胴塚がある。
こちらの場所はご覧の看板が通りに出ており、そのすぐ横にあるので分かりやすい。
(首塚)とあるが、首は恐らく源氏方へ持ち去られたであろう、という推測から胴塚。
↓平忠度 胴塚墳
「正四位下薩摩守平朝臣忠度墳」と刻む。
歌人の天才・忠度は、平家一門が都落ちする中、京の師匠の家に現れ、「平家一門はもはやこれまで、自分も明日も知れぬ身。世が治まったら自分の歌を一首なりとも勅撰集に入れてくだされ」と懇願。
のち「千載集」などに採用され、見事、後世に歌を残した(詠み人知らずとして掲載)。
↓平忠度 胴塚_説明
「♪さざなみや 志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」(千載集)
「♪行きくれて 木下かげを宿とせば 花やこよいのあるじならまし」(旅宿花)
↓平家の家系図
赤字の人物が神戸で戦死。何と多い事か
このように平氏はこの戦で一門の名のある武将が多く討たれ、弱体化していったのだ。。
(赤字では無いが、重衡も処刑された)
↓六間道(ろっけんみち)商店街
帰りはほぼ東へまっすぐ徒歩8分の神戸市営地下鉄・海岸線の駒ヶ林駅へ。
駅前の商店街には時節が時節だけに、ご覧の人形がぶら下げられていた。
・・・リーチマイケルぅ
・・・思わず撮ったっちゅうねん。。
(訪問は2019年10月)
↓諸葛亮孔明人形
そして駒ヶ林駅といえば「三国志」の街。
関羽を祀る「関帝廟」や、中華街「南京町」があり、漫画『三国志』の作者横山光輝の出身地でもある事から、
2006年頃から三国志による町興しを開始している。
↓関羽人形
一ノ谷と関係無いけど・・・せっかく近くまで来たんだし、、いいよね
↓周瑜の像
~本日のまとめ~
須磨浦山上遊園(須磨浦)→敦盛(胴)塚(須磨浦)→安徳宮(須磨浦)→一ノ谷逆落とし(須磨浦)→一ノ谷戦の濱碑(須磨浦)→源平の庭(須磨寺)→義経公腰掛の松(須磨寺)→敦盛公首洗池(須磨寺)→敦盛首塚(須磨寺)→平重衡とらわれの遺跡碑(須磨寺駅)→那須与一の墓(板宿よりバス)→平忠度腕塚(駒ヶ林)→平忠度胴塚(駒ヶ林)→六間通り商店街(駒ヶ林)
つづく。。。