泉北の諸城を巡る!!! | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

楽しかった2019年初夏あじさいの富山旅行、大分旅行を終え、このあとレス状態チーンに。。

お金札束もたくさん使ってしまい、当分旅行はお預けだな、こりゃ。。

 

・・・・・と思っているうちに2020年春桜となり・・・

 

実は、その後新型コロナの感染拡大ゲホゲホにより、この時以来現在に至るまで、旅行に全っ然行けてないし。。。笑い泣き

 

今回からは、ほぼ近畿内のお散歩レベル走る人となっていきます、、ご容赦を汗。。

 

*****

 

天王寺から阪和線で下る事22分。

信太山(しのだやま)駅にとーちゃく。

徒歩10分。

 

↓池上曽根史跡公園

池上曽根史跡公園

池上曽根遺跡は、弥生時代中期頃の環濠集落。

広さ約60万㎡びっくりで、環濠の内側に掘立柱建物群があり、中央には大型の建物があった(写真は復元された「いずみの高殿」)。

二条の環濠のまわりには竪穴住居が密集し、環濠の外側には方形周溝墓(弥生時代のお墓)があった。

 

↓池上曽根遺跡_説明

池上曽根遺跡_説明

1964年、第二阪和国道の建設計画をきっかけに遺跡の保存運動が始まり、本格的に調査サーチを開始。

掘り進めるうちに出るわ出るわ、巨大かつ重要な遺跡だという事が判明。

他の一般集落と違い、都市的なきざしビルがみられる事が特徴だ。。

その後国道以外の大部分は、史跡公園となり、現在に至る。

 

1996年、出土した柱のうちの1本が、「年輪年代法」の測定により、「紀元前52年」に伐採されたことが判明。弥生時代中後期の遺跡だ、とするこれまでの考えから約100年もさかのぼることになった。

 

↓曾禰(そね)神社_説明

曾禰神社_説明

なーんて、通り道にあったからついでに撮っただけで、お目当ては曽根城跡(やっぱりな)。

池上曽根史跡公園を北西へ抜けたところにある曽根神社神社

 

創建は675年。

終わりから3行目、「当神社境内に壱岐守王井源秀の築きし曽根城あり、歿後廃墟となり今も境内に古瓦多く発見する・・・・・略」と書かれている。

「玉井源秀」の誤りかと思われる。

 

↓曽根城_土塁跡?

曽根城_土塁跡?

境内にわずかに土塁が残る、との情報だったが、よくわからなかった。

 

曽根城は、在地の土豪・玉井氏の城砦のひとつ。
詳しい時期は不明だが、玉井源秀による築城。
玉井氏は千原城を本拠として和泉郡上条郷に勢力を持った一族で、両細川の乱では細川氏綱方として各地に参戦した。

 

*****

 

まあいい、歩いて15分のところにも城跡、あっから。。グラサン

泉穴師(いずみあなし)神社を越えてすぐ、苅田城跡にぃ、、

 

↓苅田城跡碑_跡地

苅田城跡碑_跡地
 

着いたーーーーーーーービックリマーク・・・・・って石碑無いけど。。。はてなマーク

 

スマホスマホで現在地と情報を再確認し、周りをキョロキョロうろつき挙動ってしまった。

やはり、「苅田城跡」と刻まれた石碑は、撤去されてしまっているようだ。

城跡の痕跡も、特に無い。

 

苅田城(別名・池浦城)の築城者や年代は定かではない。

中世に平城として造られ、歴代寺田氏の居城となる。

享禄4(1531)年に細川両家が争ったナイフ際、細川晴元(正確には三好長慶)の臣・三好山城守が陣を置いて、摂津遠里小野に出兵した、とある。寺田氏についての記載はなく、その後廃城時期など、歴史も不明瞭だという。

 

三好山城守というのはどうやら三好康長(笑岩爆  笑)の事で、のちのち信長についた人物。

 

すぐ目の前の曽根城城主・玉井源秀が氏綱方、こちら苅田城は晴元方の陣、かはてなマーク

落城時期など、時代の詳細な前後関係が定かで無いが、とにかく狭い範囲でバッチバチグーだったかも知れないなー。

 

*****

 

今日は何事もうまく行かないZビックリマーク

 

また15分歩いて走る人、和泉府中駅へ。むなしい労力だ。

駅前のラーメン店ラーメンで腹ごしらえをしてから、先に来たバスバスに乗り和泉中央駅方面へ。

バス停「寺門」で降り、徒歩3分。「観音寺城跡」だ。

 

↓観音寺城跡

観音寺城跡

乗るバスを選べば、写真のようにバス停の目の前に、その石碑はある。

 

もちろん、六角氏の近江・観音寺城跡とは関係ない。

観音寺城跡とは、1338年の石津の戦いナイフにおける南朝方の北畠氏の城砦のひとつだ。

 

↓観音寺城跡碑

観音寺城跡碑

大和・般若坂での戦いナイフに敗れた北畠顕家は、再起を図って和泉に侵出。
堺、石津を焼き払いメラメラ、坂本郷と観音寺に城砦を構えて各地に進撃した。


石津川畔で北朝方・細川顕氏を破った北畠顕家は阿倍野まで進出し、高師直との激戦の末に敗死ショック!
残った兵は観音寺城に集結して再挙したが、北朝方に攻撃され敗走した。

 

城跡の痕跡は、無い。槇尾川を防衛線に、堺方面を意識した立地か。

 

*****

 

目の前のバス停「観音寺町」から次のバスバスに乗り、和泉中央駅へ。

電車電車で3駅北上し、泉ヶ丘駅で下車する。

線路沿いに南下すること、またまた歩き~ビックリマークで約20分ビックリマーク

この日は暑くて、かなり疲れてきたwwあせる

 

阪和第一泉北病院病院に着いた~~あせる。。

 

↓小谷城跡への最短ルート?

小谷城跡への最短ルート?

「小谷殿古城乃?」と書かれた碑。

城跡までの最短登城路と思われる「グループホーム清泉おばあちゃん」敷地内からの階段は、何故かチェーンで封鎖されていた。

一瞬跨いで突き進んでやろうか、と頭をよぎるが、草がのびて先が見えない不安から、やめておく。

もし登っていって辿りつけなかった時の方が、痛手だ。

 

↓小谷城跡

小谷城跡

泉北病院の北にある入口から堂々入り、左手の高台目指して登ってゆく。

本当にこっちで合ってるのか不安だ。。誰もいない道を、病窓からの患者さんの視線目も気になりつつ、、ひたすら登る。

 

↓小谷城址碑

小谷城址碑

5分も行けば、無事に上の写真のような広場に辿り着けた。

そこには、今日一の成果(=立派な石碑)が待っていた。。

 

↓小谷城址碑2

小谷城址碑2

もちろん、近江浅井氏の小谷城とは、一切関係ございません。

標高80mの泉北丘陵上につくられた小谷城。

東山城と西山城(いずれも遺構は消滅)を合わせて「鼎の城」とも呼んだ。

 

↓小谷城址_説明

小谷城址_説明

小谷城は、1231(寛喜3)年に上神(にわ)政有が築城し、小谷姓に改称した。

上神氏は平氏の末裔だ。 
1571(元亀2)年、小谷政種は三好氏の家臣・一宮成祐の将・木村肥前守に攻められ討死ドクロした。

1575(天正3)年、小谷種氾の時、織田信長が根来征伐を行い、根来党であった小谷城も落城メラメラした。

 

↓小谷城跡からの眺望

小谷城跡からの眺望

立地は高く、病棟の屋根が見えているように、城跡として申し分ない。

南西方面。きっき見た観音寺城があった方角だ。

麓には小谷城郷土館もある。もう見に行く体力・気力が無いチーン

 

↓小谷城_遠望

小谷城_遠望

また今きた道を引き返すんか~~~ビックリマークえーん

帰りに小谷城跡を振り返ったの図。

 

本日は労力の割りには存分な成果も得られず、ヘトヘトになりながら、帰宅するぷにゅた氏であった・ ・ ・

皆さんも暑い季節晴れ歩く場合、水分補給スライムは忘れずにねっっビックリマーク

 

 

おわり。。。