前編からの続き。。
↓本丸下段からの眺望2
左(東)方向に目をやると、番匠川が海につながっていた。
海が近い。
初代毛利高政は、塩谷の浜を埋め立て城下町を建設した。
↓本丸外曲輪(そとぐるわ)二重櫓跡
足元に視線を落とすと、本丸外曲輪二重櫓跡。
この櫓跡からの眺めが良かった。
二重が建っていた割には、面積が小さく感じる。
↓独歩碑
三つある登城路の一つ、「独歩碑の道」はここのすぐ横に出る。
国木田独歩(くにきだどっぽ)は有名な文豪。本名は国木田哲夫(亀吉)。
明治26年1年間、佐伯に赴任し、のちに佐伯を舞台にした小説を多数書いている。
独歩碑は実は2代目で、昭和31(1956)年建立。。碑の正面の平石は、独歩兄弟が毎日使った井戸の石が利用されている。
初代の碑はなんと昭和11年に建てられたという。独歩碑もまた、城山とともに長い歴史を刻み続けてきたようだ。
なお、二の丸にある碑は「国木田独歩文学碑」。
↓本丸南東隅石垣
後ろを振り返ると、先ほどまでいた本丸の石垣が。
この部分はやはり芸術的にカーブを描くように積まれている。
何かこだわりがあったのだろうか。
現在まで崩れず残っているということは、強度の方も問題無しか。
↓本丸石垣(南西?)
本丸外曲輪を時計回りに進み、廊下橋の下をくぐる前に撮ったものかと思うが、よく憶えていない。
根拠は石の色合いだけだが・・・
↓本丸外曲輪枡形虎口
廊下橋の下をくぐり抜け、前編で本丸上から見た枡形虎口を下って、さっきはスルーした北の丸へ。
↓北の丸
北の丸も北東に向け、かなり細長い造りをしている。
↓キノコ
このすぐ左横に、北の丸碑があるが、写真は割愛。。
インパクトを狙ったキノコの写真に、負けた。
きもい。。
キノコの名前はちょっとわからなかった。
↓廊下橋まで戻ってきた
北の丸から引き返し、廊下橋まで戻ってきた。
左の石垣は本丸北西面。
廊下橋の向こう側から登城してきた。
↓二の丸
前編でスルーした二の丸跡へ再び来た。
といっても前編のと同じような画角だが。
↓二の丸からの眺望
今度はしっかり西へ開けた眺望を楽しむ。
西方面の眺望が見れるのは、二の丸からだけだ。
番匠川の上流方面。
栂牟礼城跡はもうちょっと右側、どうやら撮れていない模様。
告白。「とがむれじょう」と読むのを、何回調べて知ってもまた忘れて「つがむれじょう」だと思いこみ、今日まで至りました。
ボーッと生きてんじゃねーよ
↓二の丸虎口
二の丸の南端まで来た。
西の丸からの虎口は緩やかなスロープ、狭い道の両サイドを石垣で固め、折れ曲がりも伴うものだった。
石垣の上はもちろん門櫓的なものが建っていたろう。
↓西の丸
南端の西の丸までやってきた。
↓西の丸跡碑
初代・毛利高政についてふれておこう。
高政は、元の名を「森友重」という。
毛利に人質の時、毛利輝元に気に入られ、「もり」と「もうり」は似ておるな、いう事で秀吉の許可を得て「毛利」に改称したという。
↓西の丸からの眺望
南西方向。番匠川。
高政はなんと、秀吉の落胤だとする説もあるようだ(木下藤吉郎高吉より一字拝領か)。
秀吉の子飼いとなったのはまだ若い18歳の頃で、程なく明石3千石を所領。
あの中国大返しでは、豊臣側から毛利への人質となる大役を命ぜられ、その後毛利対策も任せられ。
朝鮮の役では軍艦目付もつとめている。 そんな秀吉の扱い方が、巷では秀吉の隠し子か・・・
という噂になったかもしれない。。↓こちらを参考にさせていただきました↓
↓西の丸からの眺望2
佐伯大橋と番匠川、堅田川合流地点。
ここ西の丸から見える景色は、本丸外曲輪からのとほぼ同じ方面だ。
↓西の丸からの眺望3
海。2つ山の島は、八島。
写真中央コンモリしたのは長島山、右のアオムシ
みたいな形は女島山か。
↓毛利家御居間
最後に麓の駐車場の外れにある、佐伯市歴史資料館へ。
続100名城スタンプもこちらで押せる。
入館料は300円だっけか
↓毛利家御居間_説明
敷地内には明治時代、元藩主の毛利家が暮らした毛利家御居間の一部が展示されている。
一応現存だが、梁や柱などの他はほぼ復元。
なお、屋敷の左には戦時中作られた防空壕の痕も残っている。
↓三府(さんぷ)御門
見落とし注意。佐伯城とは反対の方向(南)にある。
江戸時代後期に建てられた佐伯藩の役所「三府役所」の門を移築。
九代高誠(たかのぶ)の代、藩は財政・法政を改めて三府(糾府・勘定府・米金府)を置いた。
薬医門の形式で、佐伯市指定有形文化財。
↓佐伯歴史資料館_屋外平面図
門の外側に貼られていた屋外平面図。
城下で他の見どころは、山際通りを東に進むとよい。
藩主の墓が並ぶ養賢寺、国木田独歩館、佐伯城武家屋敷にあった薬医門などがある。
・・・・・行けばよかった。。
以上。。。