岡城!!!~後編 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

前編は、→こちら。

中篇は、→こちら。

 

後編は、いよいよ本丸に突入ビックリマーク

 

↓滝廉太郎像

滝廉太郎像

↓二の丸眺望

二の丸眺望

滝廉太郎像の横より。

雄大な自然の景色が広がる。

くもりが出てきたため、奥の九重連山はちょっと見えない。

 

↓二の丸から見る本丸石垣

二の丸から見る本丸石垣

二の丸から本丸へ上がる石段がある。

下にある側溝跡も現存だろうか。

 

↓本丸跡

本丸跡

本丸にあがった地点からの1枚カメラ

 

↓本丸跡

本丸跡

↓三重櫓跡

三重櫓跡

本丸の南西端には、御三階櫓(三層四階建て)が再建されていた事が、古写真などから判っている。

岡城では、天守に相当する存在だった。

 

↓三重櫓跡

三重櫓跡

御三階櫓跡の上より。

なお本丸北西隅(写真右奥方向)にも、3重の角櫓があったとされる。

ここと渡櫓(わたりやぐら)でつながっていた。

 

↓本丸南の通用路

本丸南の通用路

東にカメラを向けた。

左奥に見える建物は、岡城天満神社神社

写真右下には、伝わりにくいがかなり下の方に細い道がある。

東の曲輪郡に行くには、一回引き返してあの道を奥へ進む。

 

さらに右側は断崖で、光る大野川キラキラと国道502号も見える。

 

↓史跡 岡城跡_説明

史跡 岡城跡_説明

こちらで注目すべきは最後の藩主・中川久昭が描いた絵図。

幕末~明治の建造物の様子などを、窺い知ることができる。

 

なお、中川久昭は藤堂家の次男で、養女に婿養子にきてもらった人。

なんじゃそりゃ、完全に断絶してるやんガーン、中川家。。ほんで幕府もよう認めたなー。

 

↓岡城址碑

岡城址碑

めちゃでっかい石碑。「明治二十五年」と刻まれている。

All漢字だし、ほとんど読めましぇーんショボーン。。

 

はてなマーク石碑の後ろに何かあるな~。

 

↓箱階段

箱階段

じゃじゃーんビックリマーク「箱階段」ードア

これを使うと、しずちゃんおとめ座ちのお風呂、じゃなかった、下の二の丸風呂屋まで雨に塗れずに、しかもマッパで(はてなマーク)行く事ができるんだよビックリマークのび太くん。メガネ

 

 

↓箱階段_内部

箱階段_内部

現在は二の丸の休憩所へ通じている。

どうせならお殿様気分で、帰りはこちらから降りればよかった。

 

当時の雰囲気を味わえる施設で、復元というわけではなさそうだ。

 

↓御金倉跡

御金倉跡

本丸北東端まで来た。ここには金倉が建っていたのか。

といっても、どうせ財政は逼迫ゲッソリしていた事だろう。。

 

↓御金倉跡から見る東中仕切跡

御金倉跡から東中仕切跡を見下ろす

東の曲輪からの門、東中仕切跡を見下ろす。といっても樹木のせいで石垣が写っていなし。

写真右の方に門があって、右下から細い道が手前に延びている。

正面は堀切ってあり、本丸へ向かう道をあえて狭くしている。

 

遠回りが面倒な人は、ここから向こう岸までジャンプカエルしてみよう(冗談を言っています)。

 

↓本丸石垣_拡大

本丸石垣_拡大

本丸から二の丸、三の丸と戻り、東の曲輪郡へ向う。

その道中、どこの部分の石垣かは忘れたが、谷積み(落し積み)か。

亀甲積み(六角形に加工して積み上げる切込み接ぎの一種)に見えなくもない。

 

↓三重櫓跡を見上げる

三重櫓跡を見上げる

三の丸の南口から南側の細い道に出た。

見上げると、結構高いびっくり。この上が本丸の御三階櫓跡に当たる。

 

↓本丸石垣

本丸石垣

細い道を辿り、どんどん北東へ。本丸はこの石垣の上にあった。

奥へ進むほど野面積み(あるいは打込み接ぎはてなマーク)ぽくなっている。

これだけ高く積むのは、いずれにしてもかなりの技術が必要かと思われる。

 

↓東中仕切跡から見る本丸、御金蔵跡石垣

東中仕切跡から見る本丸石垣

先ほどはあの上からこちらを見下ろした。

手前に突き出した石垣が金蔵跡。金蔵跡は拡張して2m位継ぎ足しているのが判る。

 

屋根が見えるが、岡城天満神社神社

木の陰で見えにくいが、右奥に二の丸風呂屋温泉(現・休憩所)も写っている。

 

↓三楽亭跡

三楽亭跡

尾根を少し北に下ったところに清水門跡があるが、見落とした。

東の郭は、志賀氏の時代には山城的殿社が建ち、、岡城の中心部であったようだ。

 

三楽亭は、藩校・由学館学校の師匠から藩主が講義を受けたり、趣味ゴルフを行うような場所だった。

 

↓御廟所(ごびょうしょ、おたまや)跡

御廟所跡

御廟所跡にはもともと荘嶽社(そうがくしゃ)など、初代藩主・中川秀成、その父清秀、兄秀政を祀る神社神社らがあった、と言われている場所(郭の名前からそのように推測されている)。

荘嶽社などは明治の廃城後、現在の山麓西方・常盤山頂の中川神社へ移されている。

 

入口付近しか撮れていないが、三楽亭跡も御廟所跡も、実はかなり奥に広い。

 

↓下原門跡へ続く道

下原門跡へ続く道

ここまで来たのだから、もう少し先にある下原門(しもばるもん)跡を見てから引き返すべきだった。

下原門は搦手(裏口)側の門で、志賀氏時代はこちらが大手門として使用されていたようだ。

 

↓豊後竹田駅

豊後竹田駅

岡城を後にして、最寄の豊後竹田駅に。

観光地としての意匠が感じられる造り。

 

何か音がすると思ったら、滝ではないかビックリマークびっくり

背後に滝が落ちている駅って他にあるのだろうかはてなマーク

 

↓落門の滝(下木の滝)

落門の滝(下木の滝)

駅の右端より。

細いが結構な落差のある滝だ。落ちた水みずがめ座は果たしてどこへ逃げているのか。

 

↓稲葉川(上流方面)

稲葉川

たぶん地下を通ってこの稲葉川へ逃がしているのだろう。

稲葉川はくじゅう連山の方から流れてきて、駅前から岡城の北を通り、東方約500mで大野川と合流している。

 

 

 

 

おわり。。。