大分旅行2日目は、大分駅から車で1時間強にある、岡城址からスタート。。
令和元年5月、NHKで放送された『あなたも絶対行きたくなる!日本「最強の城」スペシャル・第3弾』で、最強の城に選ばれた岡城
滝廉太郎(たきれんたろう)の「荒城(こうじょう)の月」のモデルとなった岡城(諸説あり。)
志賀親次が、島津の再三にわたる攻撃を撥ね返した、難攻不落の岡城
↓史跡 岡城址碑(駐車場)
駐車場は広く、石碑は城とは反対の西端に建っている。
城寄りに車を停めた人は見落とし注。まぁ登城口にも城址碑あるし、まぁいっか。
右の立派な石碑は、源義経かくまい築城伝説に関する歌碑。
「ああゝ義経公 作詩 吉村五郎 兄頼朝の命悲し 落ちゆく名将義経を 天下無隻(双)の岡城に 迎えん惟栄夢に泣く」とある。
兄・源頼朝に追われる義経を迎えいれるため、大野郡緒方荘の武将・緒方三郎惟栄(これよし)が岡城を築城。しかし、九州に向かう船が嵐
に阻まれ、義経一行は足を踏み入れることがなかった、という伝承。
全国あまたの義経伝承、ここ九州でも炸裂っっ
↓岡城址を見上げる
でで~ん
何と広い駐車場でしょう・・・って、そっち
崖の上に立つ石垣がそそり立つ。天空の要塞の出現に、ワクワクが止まらない。
↓岡城跡地図
(写真にすると)字がちーさすぎて読めない
このマップで分かる事は、2つの川が合流する手前の、急峻な山の上にあり、めちゃくちゃ広い、という点だ。
岡城の築かれた天神山は標高325m(比高95m)、その広さは実面積でおよそ100万㎡(東京ドームの22個分)にあたる。。(豊後岡城公式HPより)
いや、そこまで広くないやろ~盛り杉ちゃうか~
(*個人の感想です)
↓竹田城下町地図
車でだと、以外に主要道路からのアクセスが難しい。
廣瀬神社横のトンネルを抜けたら、すぐ脇道へ行こう。
観光案内所は豊後竹田駅にあり、レンタサイクルする事もできる。チャリで城跡まで13、4分かな~
他のスポットとして竹田市歴史文化館、滝廉太郎記念館、岡藩主おたまや公園、殿町武家屋敷跡などがある。
↓岡城跡のぼり口
入場料は300円だが朝早すぎて受付時間外、巻物状のパンフレットは帰りに頂くとしよう。
と、受付からこの道に出てすぐの所にある「鏡石」を、すでに見損ねてしまっている。
↓史跡 岡城址碑
登城口手前に建つ城址碑。とその奥にも石碑が一本ある。
↓国指定史跡_説明
昭和11年と早くから国の指定史跡をうけている。
国指定史跡の申請書に書かれた内容をそのまま現代文にして掲載、という変わった説明板。
なお、現在では日本百名城、日本さくら名所百選にも選ばれている。
↓のぼり口奥にある石垣
見落としがちだが、登り口奥にある石垣も高く、立派。
見上げると、石垣はさらに上まで続き、一番高い所に大手門跡の石垣が。
圧巻である。。
↓石段と手すり
つづら折りの石段を登っていく。
カーブを描きながら、上部分が丸くなっているかまぼこ型手すり石垣。日出城で見たものと近い。
技法からして、国指定史跡を目指した時(昭和初期以前)に組まれたものか。
鉄砲の角度を変えやすいように丸くした、との情報もあり、江戸時代かもしれない。
↓大野川を見下ろす
見返すと、城の南を流れる大野川と、橋を渡る国道502号線が見えた。
岡城を見終えたら、あの道を東(左)に向け次なる目的地を目指す事となろう。
大野川(白滝川)の河原は「滑瀬(ぬめりぜ)」と呼ばれ、川底の大部分が阿蘇溶岩の一枚岩で覆われ、水苔で滑りやすくなっていた。小さくだがその特徴も写っている。
こうした自然の特徴をも活かした志賀親次の戦術により、島津軍の攻撃に孤軍奮闘した(滑瀬橋の戦い)わけだ。
↓大手門跡(城内より)
大手門櫓台石垣。外側から撮ると逆光のため、城内からの写真。。
ここにも石垣の中に大きな石(鏡石)があるが、見落とした。
かつてこの上に巨大な櫓門が建っていた。明治の廃城時に競売に掛けられ、他の建造物同様すべて撤去された。
手前の石垣は古大手門、奥のスロープ状の石垣は西の丸御殿への入口(後で紹介)。
↓大手門跡_説明
↓古大手門跡
東側に向いた造りだったのを、藤堂高虎のアドバイスで現在の西向き大手門に造り替えたという。
ここでも高虎か~。。スゴイな、高虎
古大手門の時の登城路は今と違い、滑瀬坂から滑瀬橋の方へと続いていたのだろう。
↓岡城再現俯瞰図
右側が北となってはいるが、バードビューで当時の様子が分かり易い。
東(地図下)から御廟の曲輪、東西の中仕切の間に本丸・二の丸・三の丸を置き、西に広大な西の丸。
梯郭(ていかく)式(本丸を中心に置かず偏らせ各曲輪をそれに沿って配置)の山城。
↓西の丸御殿跡大階段
大手門から入ると、東の本丸方面、北の近戸門方面、西の西の丸方面とルートが分岐している。
まず西の丸へ向ってみることに。
先ほど大手門の奥に見えていたスロープ=西の丸御殿跡大階段。。
↓西の丸跡_説明
西の丸御殿は1664(寛文4)年三代藩主・中川久清の隠居所として普請された。
↓東門跡
スロープを登った所にある石碑。
東門は、スロープ中央の階段の幅ぐらいの大きさの門だったという。
↓西の丸御殿_正面入口
東門から入った所はまだ御殿ではなく、写真の石垣の上が御殿だった。
古地図にも描かれているという、写真の階段をあがってみる。
↓西ノ丸御殿跡
ひっろ~い
江戸時代の大部分において、ここが政治の中心地だったという。
↓駐車場を見下ろす
西の丸の西の端まで来た。たっか~。
見下ろすと車を停めた駐車場が。さっき見た石垣はここ西の丸石垣だった件。
ちなみに駐車場=総役所跡とのことだ。
写真撮った場所より左手に物見台跡、右手に角櫓跡がある。
いずれも見張りが目的で、絶壁に突き出した造りとなっている。
↓角櫓跡
西の丸から見る角櫓(すみやぐら)跡。
物見台跡、角櫓跡ともに石垣を使用している。あそこまで行く時間をも節約、節約っと。
↓古井戸跡
西の丸から北の近戸方面を目指す。その行きがけにある古井戸。
草に覆われているが、しっかり石で組まれているようだ。
こんな山の上で掘り当ててるんだから、そうとう深く掘っているだ。
↓中川民部屋敷跡
「家老屋敷跡」って城内に3つほどあるのに、ざっくりした石碑だこと。
まあ縦長の説明板も併設されているので、心配ないさ~~~♪
こちらは、「中川民部屋敷跡」。バックに礎石が配列展示されている。
その縦長板だが、写真にすると全く読めないので割愛。
↓北方面の眺望
北への眺望が開けた。
中央やや左の遠くに、うっすら阿蘇山。
こんな遠くまで噴火の被害が及んだことがあるのか
↓近戸門(ちかどもん)跡
3つあった城門のうちの北側口、近戸門跡。
この先を「七曲りの道」というくねった道を降りていくと、最初に居た総役所跡(駐車場)の北側にたどり着くようだ。
行かないけど。。
つづく。。