今日は関西を出発してから石垣原古戦場、日出城、杵築城をすでに攻略を終え、あとは本日の宿泊予定の大分市内へ向け再び南下・・・
・・・と思わせておいて、、杵築城から帰りは高速道路に乗り、大分市も通り過ぎ、返す刀で戸次川(へつぎがわ)古戦場まで南下、攻略する。
(官兵衛か)
↓道路標識
このように史跡が交通標識で案内されているので、分かり易い。
粗品「いや、超有名スポットの扱い方っ」
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1585(天正13)年、長宗我部家は豊臣秀吉の四国攻めを受けると降伏し、所領は土佐一国だけとされ秀吉傘下の大名となる。。
一方、かつて豊後で一大勢力を誇った大友宗麟。
島津家の圧迫→滅亡の危機→宗麟は秀吉に大坂城で面会して救援を乞う。
島津軍は1586年12月には豊後の要衝・鶴賀城を18000にて包囲。
そんな中、秀吉は島津討伐軍を編成(黒田官兵衛、毛利ら)、
さらに先発隊として高松城主・仙石(せんごく)秀久を軍監に抜擢、長宗我部元親・信親父子、十河存保(そごうまさやす)ら四国勢6000を編成、豊後に渡海させた。
鶴賀城では兵・領民合わせ3000、城主の利光宗魚(としみつそうぎょ)が流れ弾に当たり討死するも、その死を秘して島津勢の猛攻をなんとか持ちこたえていた。
↓バス停利光
本来なら鶴賀城や成大寺(じょうだいじ)を訪れるべきところ、この写真で我慢。
利光に住んだから利光氏なのか、利光氏が住んだから利光いう地名なのか
なお、利光宗魚は宗麟の勧めを受けてキリシタンの洗礼を受けた人物。
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四国勢・大友6000は戸次統常(べっきむねつね)の道案内で軍勢を鏡城に進めた。
戸次川(大野川)を挟んで両軍は対峙したが、この時、豊臣勢の兵力は充分でなかったことから、黒田官兵衛らの到着を待つようにと、秀吉は仙石秀久に交戦を禁じていたとされる。
↓鏡城跡_遠景
戦場を俯瞰(ふかん)できる鏡城へは登っておきたかったが・・・。
道は細いながらも、山頂付近まで車通行が可能らしい。
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軍議では強行派の仙石と慎重派の元親が激しく口論するも、結局、仙石の強行によって、戸次川を渡河する事が決定された。
季節は冬。渡河は難航するも、何とか日暮れまでに渡り切った(その付近には「日渡り」いう地名が残る)。
↓戸次川古戦場跡
こうして、1586年12月12日、両軍は激突(戸次川の戦い)。。
島津勢の伊集院久宣と仙石秀久の間で鉄砲の撃ち合いが始まると、島津勢はもろくも脇鶴から利光へと後退する。
勢いに乗って四国勢が追撃したところ、繁みや土手にいた伏兵に鉄砲で攻撃を受け。
島津家久と新納大膳に反撃され。迫の口(さこのくち)の本庄主税助(ちからのすけ)に側面攻撃され
。(釣り野伏せ戦法)仙石勢はあっという間に混乱し敗走。。。
↓戸次川古戦場跡碑
何とも味わいのない古戦場碑だ。一応車は停めれるが大分市から南下してきた場合、反対車線側にあり、いやらしい。
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続いて第2陣の十河存保と長宗我部信親の部隊も包囲され、翌13日朝までに殲滅。
四国勢は総崩れとなり、多くの死骸を残して敗走した。
この戸次川の戦いで、長宗我部信親、十河存保、戸次統常は討死。
↓墓所_遠景
車で川沿いの国道10号線からは左に曲がり、緩やかな登り。
駐車場入口は鋭角に右折する形。対向車に注意が必要だ。
↓戸次川合戦の概要
↓長宗我部信親の墓
長宗我部信親3000の兵は、島津勢・新納大膳亮5000と中津留川原にて戦い、最後は鈴木大膳に討たれた。享年22。
↓長宗我部信親顕彰碑
信親は長宗我部元親の嫡男で、将来を嘱望された青年武将だった。
父・元親が織田信長と結んだ時、烏帽子親となった信長より「信」の字を与えられた。
↓鎧塚
墓所には長宗我部信親の墓、十河一族慰霊碑などがあるが、鎧塚(よろいづか)もある。
鎧がちぎれるまで奮戦し、壮烈な戦死を遂げた信親の鎧が埋めてあるといわれている。
↓十河一族慰霊碑
十河存保とその一族の慰霊碑。
存保は、十河一存の子では無く、三好義賢の子で、養子となり家督を継いだ。
斜陽となりつつあった三好一族において勇将と云われた。
長宗我部家とは過去に四国で何度も死闘を繰り返していたが、この時は仕方なく味方同士だった。
↓十河一族慰霊碑_裏面
十河存保は、国元にいる嫡子・千松丸を豊臣秀吉の前に出仕させるよう家臣に頼み、敵陣に斬り込んだ。享年33。
なお、羽床城主・羽床資吉(はゆかすけよし)らも討死。
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第3陣の長宗我部元親は合戦に参加できず。敗報を受けると死を決意するも、家臣の説得を受け、僅かな手勢と共に舟で伊予へ撤退。元親の落胆は大きく、その後の性格は、別人のごとく
変わったと言う。
敗北を目のあたりにした鶴賀城は降伏・開城。
勢いに乗る島津軍は、その日のうちに大友館(大分市)を取り囲んだ。
臼杵鎮尚、吉弘統幸、志賀親次、佐伯惟定、木付鎮直、吉岡妙林尼らはそれぞれの城で奮戦を続けた。
一方、仙石秀久は敗戦の責任を問われ、領地没収の改易処分となり
、高野山へ追放された(のち徳川家康の仲介で大名として復帰)
↓長宗我部信親終焉の地
裏手にあるわずかな竹薮が討死した場所だろうか。
場所は古戦場碑から南へ徒歩10分、道の左手にある。
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両軍合わせて2000名以上の死者を出すほどの激戦。島津軍が豊後に攻め入った中で、最大の合戦だった。
せめて立花宗茂隊(府内城まであと少しまで迫っていた)、大友勢本隊(義統自身の出馬は消極的だったが)を待ってから動くべきだったろうか。兵力で大幅に劣りながらも無謀な攻撃に出たと言える。
↓りゅうきゅう
ようやく今日の長い旅程を終え、本日の反省会ゃ~
(反省点多すぎ。。)
大分名物「りゅうきゅう」などに舌鼓。
なかなかに歯ごたえがあった。
おわり。。。