2日目は朝から再び高岡に移動、高岡駅からレンタサイクルし、約7分。
高岡城の入口にとーちゃく。。
高岡城は1609年、初代加賀藩主・前田利長(利家の嫡男)が、富山城に変わる隠居城として築城。
(富山城が火災にあったから)
縄張は、当時前田家の客将だった高山右近が務めた、ともいう。
建築遺構は無いが、石垣の一部と井戸が現存している。
↓駐春橋
赤い欄干が特徴の駐春橋(ちゅうしゅんばし)を渡った先に、高岡城がある。
古地図ではここに橋は架かっておらず、入口も無かったと思われる。
↓南外堀
駐春橋より南東方向。大手口がある方向だ。
↓南外堀
駐春橋より北西方向。橋から見える堀は南外堀という。
堀の護岸用の石垣は、割と新しいものっぽい。
↓高岡古城公園石碑
1870(明治3)年、金沢藩は高岡城跡の民間払い下げを決定。一旦は樹木伐採の落札者なども決まった。
しかし、「長年高岡町民の誇りであった城跡が失われてはならない」と市民が立ち上がり、服部嘉十郎らの尽力により
1875年、公園化が決定。
この古びた石碑は、その時建てられたものか。
↓高岡古城公園マップ
本丸をコの字形に各郭で囲むように設計された。
今なお、その基本形は失われていない。
隠居した利長は1614年にこの世を去る。
1615年一国一城令により高岡城は廃城。わずか6年で用済みとなる。
それなのに原型を今なお留めているのは、歴代の藩主が城址を町奉行の管理下に置くことで、堀や土塀の保存に務めたからだ。有事の時には機能できるように考えていたのだろう。
↓護国神社
では城内を見ていこう。入ったところが二の丸。現在では護国神社が建つ。
大きな城跡にはよくある護国神社。
↓富山市民会館
同じく二の丸内にある市民会館。
↓二の丸・本丸間の橋
二の丸を後にして本丸へ。
ここで内堀をかかる橋(一見ただの通路)を渡るわけだが、とその前に。
↓橋の下へ
橋の下へ向かう階段を降りて石垣を見に行く事をお忘れなく。
↓土橋石垣
堀底に降りてきた。
おおこれか。。
思っていたよりもたくさんの石が使われているのに驚きだ。
↓石垣(拡大)
切り割った黒っぽい石がびっしり積まれている。
乱積みという積み方で、築城当時の石垣との事だ。
黒い石が多いのは花崗岩などが使われているからだろうか
↓本丸
本丸広場。
ここから南東にある射水神社も本丸のうちなので、なかなか広い。
何かイベントがあるのだろうかテントの設営などが行われていた。
↓天守台からの眺望
本丸の北端付近まできた。
高岡城内に櫓などがあったかは不明で、天守は恐らく存在しなかったと思われる。
が、マップには天守台とのっていた。将来造るつもりはあったのかもしれない。
それとわかるようなものでは無く、土塁程度の高まりがあるのみだ。
唯一視界が開けた場所。城外よりも少しばかり高い場所にいるのが判る。
↓前田利長公の像
本丸広場の北端に高岡城を築城した前田利長公の騎馬銅像が建つ。
↓前田利長公の像(拡大)
初名は利勝。秀吉の死後は徳川家康に帰順し、加賀百万石の礎を築いた。
銅像は、利長が高岡城へ初めて入城するシーンを顕したもののようだ。
↓本丸井戸
これも現存との事で、本丸井戸。
本丸の隅にひっそりとあるため、見逃し注意。
↓朝陽橋
本丸広場からさらに東奥へ抜けていくのに、またまた内堀をまたぐ。
写真は三の丸へ通じる朝陽橋(あさひばし)だ。
↓内堀
朝陽橋の上より北西方面の内堀を見る。
古城公園の約1/3は堀だ。豊富な水量がある。
↓中の島
東屋が見えるが、内堀に浮かぶ中の島にある「緑翠亭」だ。
内堀は、そのまま奥に見える西外堀へと通じている。
↓民部の井戸
三の丸はまたの名を「民部丸」ともいうようで、三の丸にあるこの井戸を「民部の井戸」と呼んでいる。
立派な屋根まで付けて、貴重な井戸だったのだろうか。
↓民部の井戸_説明
どうやら最大級の井戸とのことで、やはり貴重な水源だったようだ。
屋形は後に建てられたようだが、屋形自体もかなり古いもののようだ。
↓富山市民体育館
三の丸には、体育館がある。
↓富山マラソンラッピングカー
体育館駐車場に停まっていた車。
残念ながら新型コロナの影響により富山マラソン2020は中止となった。
通常は毎年秋に行われ、高岡―富山間の名所を走る
。
(訪問は2019年5月)
↓北外堀
三の丸を囲む形の北外堀。
こちらの堀はだいぶん濁っているように感じたのは気のせいか。
つづく。。。