さて、楽しかった旅行も終わり、近畿に帰ってきました
今回は、、安居(やすい)神社っっっ
そう、あの真田幸村公が最期を迎えた場所だ
ではさっそく行ってみよう
↓安居神社南側入口
電車で行くとなると、堺筋線の恵比須駅が最寄だろうか。
私は天王寺で降りて約12分歩いた。
ビルの隙間からどんどん奥へ入っていこう。
↓上田市提携記念
信州上田市と大阪城の提携により、境内に上田の桜が植えられたんだそうな。
植えてから10年は経っている、背丈は低かろうが咲いてるはず。
これは機会があれば春にまた訪れなきゃ。
↓安居神社本殿
↓安居神社由緒略記
創建については詳らかでは無い。御祭神は少彦名神(すくなひこなのかみ)。
菅原道真公が大宰府に流される時、この地で風待ちをしたという縁から、
天慶5(942)年に菅原道真公を合祀して安居天満宮とも呼ばれるように。
太平洋戦争の時の大阪空襲で全焼してしまったが、戦後に復興した。
↓さなだ松
大坂夏の陣最後の決戦・天王寺岡山の戦い
徳川家康の本陣に突撃し、あと一歩のところまで追い詰めた真田信繁(幸村)。。
しかし、時間が経つにつれ、数に優る徳川が優勢に。。
いよいよ戦い疲れ、この一本松の下で休息していたところ、越前兵に見つかり、討ち取られたという。
当時の松は枯れ、現在のは二代目。
↓真田幸村公之像と戦死跡之碑
↓戦死跡之碑
↓真田幸村公之像
↓真田幸村陣没の旧跡
↓安居神社西参道
北側入口から参道を見下ろしたところ。天神坂へ通じる。
南の国道25号からはスムーズに入れたが、境内の北と西はこのように切り立った地形となっている。
↓安居神社由緒略記
ここに書くべきではないかもしれないが、少しKYな話をのせておく。
近年発見された新史料では、信繁終焉の地は生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台だという。
範囲が広いが、いずれにせよここ安居神社よりもやや北という事になる。
↓伝真田の抜け穴井戸跡
安居神社を出て、すぐ向かい側にある大きな一心寺。
ここにも「真田の抜け穴」があったとは
三光神社の抜け穴は有名だが・・・
全国各地に幸村の抜け穴伝説があるし、ここにもあっておかしくはないかも。
でも、どこに通じているというのだろう
ここは討死したという場所のすぐ近く、まさか・・・
“花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島(鹿児島)へ”
↓薄田隼人正兼相の墓所
さて、一心寺を離れ谷町筋をひたすら北へ15分。
増福寺なる寺までやってきた。
↓薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)の墓
薄田兼相は大坂夏の陣・誉田(こんだ)の戦い(天王寺岡山の戦いの前日に行われた)で討死。
冬の陣での失態から、味方に「橙(だいだい)武者」って呼ばれた人。。
(橙は、「鏡餅の飾りなどに使われるが食べられない」から転じて「見てくれだけで役に立たない」の意味)
↓薄田隼人正兼相の墓
山門すぐ右手にあり、特に目印などはない。
薄田兼相の墓は羽曳野市誉田にもあるが、こちらの方が1814年建立と古い。
↓真田幸村緒戦勝利之碑
さらに歩いて8分、上本町(うえほんまち)駅まで歩いた。駅のすぐそば。
っていうか隠れてて見つけづらい。
「真田幸村緒戦勝利の碑」という、近年建てられた碑が。
ここは真田丸跡地からはだいぶん離れているが・・・
この場所は真田丸の南西約1キロの場所で徳川軍の前線として前田利常や井伊直孝、松平忠直らの軍勢が布陣していた場所にあたる。
慶長19(1615)年、大坂冬の陣「真田丸の戦い」。真田軍の挑発に乗った前田軍が真田丸に突撃、井伊軍、松平軍も兵を動かしたところ、真田軍の反撃を受け徳川軍に多大な損害が出た。
真田丸には馬出しも備わっていたという事なので、ここまで追撃されたかもしれないね。。ってことで。
↓真田幸村緒戦勝利之碑近くの木
それにしても駅前という事もあり、碑以外何も無い。
仕方ないので、交差点前にある立派な木(種類はわからず)を撮っておく。
以上。。。