↓郡山城址碑
さぁて、岡山を後にして広島までやってきましたww今回は「吉田郡山城」っっっ
こないだやったやつでしょ
それは、摂津郡山城(マニア向き)。。
中国の覇者・毛利元就の本拠地にして日本百名城のひとつ、
尼子氏からの攻撃をもはねつけた、難攻不落の山城
JR芸備線・向原(むかいはら)駅からタクシー
飛ばして安芸高田歴史博物館へ一直線
と、思いきや、その道中にあるからには、ちと見ておきたいマニアスポットが・・・
本当に道端にあるので、車で走っててももすぐ気付く。
↓湯原弥二郎(ゆはらやじろう)腹切岩
山陰地方の雄・尼子経久(つねひさ)が隠居し、詮久(あきひさ)が跡を継ぐやいなや、
長男(のちの毛利隆元)を人質に入れ、大内氏の傘下(さんか)に入る事を明確にした毛利。
天文9(1540)年、怒る尼子詮久はついに3万を率いて出陣、毛利元就の吉田郡山城に迫る。。
9月からの小競り合いでは、各方面で毛利が有利な城下で勝利を収める。
9月26日、業を煮やした尼子の武将・湯原宗綱(ゆはらむねつな)は兵1500を率い、
毛利の後詰・小早川興景(おきかげ)を叩くため、向原方面に進出。
↓湯原弥二郎腹切岩の由来
しかし、かえって反撃に合い、吉田郡山城から出撃した部隊との間で挟み撃ちされてしまう結果に。
尼子勢は大敗し、湯原宗綱は逃れ損じ、この地で進退窮まる。
↓池の内池
すぐ近くにあるこの池が、血洗いの池として赤く染まった事だろう。
今なお、浮遊物のためか少し赤みがかっているようにも見える。。
確かにここまでの道は、山あいゆえにこの道一本しかなかった。
この池のほとりでようやく道が分かれている。ここを北へ反れ逃げようとしたのか。
湿地帯で馬が立ち往生、とあるが地形的に合点がいく。。
↓池の内古戦場跡
池のすぐ脇に古戦場碑と説明が。
一連の吉田郡山城を巡る戦いの中でも、この戦いを特に「池の内の戦い」という。
古戦場を後にして、安芸高田歴史民族博物館
を、通り過ぎんのかい車をさらに西へ走らせる。
吉田サッカー公園の近くへ。
↓尼子義勝墓所
尼子義勝(久幸)とは、経久の弟で晴久(詮久)の大叔父にあたる人物。
安芸進出に異を唱えたため、詮久から「臆病野洲」よばわりされる。
大内氏が本腰を入れて吉田郡山城救援に乗り出すと、
天文10(1541)年1月、毛利に呼応して大内も青光井山の尼子の陣を奇襲する。
尼子本陣は一時大混乱するも、決死の覚悟の義勝が奮戦、討死して
いる間に尼子勢は体勢を立て直す。
そのおかげもあり、詮久は無事出雲へ逃げ帰ることができたという。
↓尼子下野守義勝の墓_説明
その後義勝はこの地に埋葬されたとのこと。
小さな山となっており藪ってる時期だし、タクシーを待たせているので入口で参拝。
ささ、早く安芸高田歴博へ。。
とその手前にある吉田運動公園近く、「相合四郎の墓」へ。超マニアック
史跡。
↓相合(あいおう)四郎の墓
相合四郎元綱とは、元就と家督を争い粛清された三弟。
大河ドラマ「毛利元就」では何と西島秀俊さんが演じていた
民家の庭先にひっそり立っている。
小ぶりで訪れる人も少ないだろうが、手入れされ大事にされてているのが分かる。
元就からしたら謀反人なのに、郡山城にほど近い場所にお墓のなぜ
GoogleMapなどでは、現在「相合元綱の墓」と記載されているが・・・。
ご近所で清掃されている方にお墓の場所を訊ねたときの事。
「相合元綱さんのお墓はどちらでしょうか」
「はぁ」
「相合四郎さんのお墓なんですが・・・」
「あぁ。それならばあそこに。」と、案内して下さった。
調べてみると、元綱粛清後に、僧侶となっていた四男・就勝が還俗(げんぞく)し、空家となっていた相合屋敷(お墓のある辺りに屋敷があったであろう)に住んだのだという。
その後、相合の四郎といえば就勝の事を指すようになり、江戸時代には毛利家においてさえ混同されていたんだとか。。
地元で認識されているように、四弟・毛利就勝の墓、という説が有力だろう。
「わざわざご苦労さんですね。」
相合地区の方は、何と清掃当番の人にふるまう予定であろう缶コーヒーを、我々に振舞われた。やさしー
タクシーで乗り付けてまで来たので、ビックリされた事だろう。お掃除の邪魔してすいませんでしたー。。
↓安芸高田市歴史博物館
ようやく着いたよ!ここで登城地図やスタンプをゲットできる。
↓吉田郡山城案内図
資料館前にあるざっくり地図。山登りを始める前に、まだ見ておくものがありそうだ。
↓吉田郡山城_遠望
言わずと知れた毛利元就の居城。
可愛川(えのかわ)と多治比川(たじひがわ)の合流点の北側に位置し、吉田盆地を見渡す場所に築かれた山城。
築城時期は不明。15世紀中頃には存在し、元就の時代に全山が城郭化された。
広島城に遷るまで、毛利氏の本拠として機能した。
↓三矢の訓(さんしのおしえ)跡碑
「みつやのおしえ」とも。三子教訓状がネタ元となっている。
息子たちの目の前で三本の矢を折ろうとしたのは有名な逸話だが、元就は手紙で力を合わせるように説いただけだ。
三本の矢とは、①金融緩和②財政出動③成長戦略・・・某政治家も口にする言葉。
Jリーグのサンフレッチェ広島というチーム名も、「三(さん)」「フレッチェ(=イタリア語で矢)」の造語だ。
現在の少年自然の家敷地内にこの碑がたっている。
どうやらこの場所が元就居館跡との事だそうだ。
自然の家の入口から入って建物より奥の庭にあるので、見落としかねない。。
なお、この庭から青光井山(のちほど紹介)がよく見える。要チェックだ。
↓毛利元就公像
元就一代で、毛利は小領主から中国の覇者にまで成り上がった。
汚い手も一杯使ったことだろう、この像も一応思慮深いお顔はしておられる。
↓薬研堀(やっけんぼり)跡
坂道を大分登ってきた。ここからがいよいよ山登りか。眼前にV字谷がある。薬研堀(やげんぼり)跡。
薬研とは薬を作るときにすり潰す際に使うゴリゴリする器械。その土台のように堀底がV字の形をしていることから、こういう堀を薬研堀という。
(わかりづらいわ)
逆に四角く掘ってあるものは箱堀という。
ふもとの方まで防御施設を造るとは・・・大要塞だな、こりゃ。
薬研堀の見える場所から一度振り返ってみよう。
「毛利隆元公の墓所」の道しるべが出ているではないか
↓毛利隆元の墓
道しるべに従い、少し道をそれて登る事4分で着く。
墓石には毛利氏の本姓である「大江隆元」で書かれている。
隆元は大内義隆から一文字貰った名。大内と毛利の同盟をあらわしている。
元就より家督を次いだが、元就よりも早く41歳で急死した。
死因はいまもって謎である。
大河ドラマでは、上川隆也さんが演じていた。
↓青光井山_遠望
ふたたび登城口まで降りてきた。
青光井山(左が青山、右が光井山)は郡山城の戦いの時、尼子詮久が砦を築き本陣を移した山。
郡山城から見て南西に位置する。
城郭考古学者の千田嘉博先生が訪れ、防御施設も備えた立派な城ですよ
とはしゃいでいたっけ。。
尼子の方も強力な陣を構築していたようだ。
しかしなぜ尼子は多治比川を渡って南に進出する愚を犯したのか
大内の援軍と毛利との分断を狙ったにしては、できてねーし・・・
↓郡山城跡案内図
こちらの地図はイラストを用いて立体的でわかりやすい。
標高390m、比高190mの山頂を中心として、放射状に築かれた270もの曲輪が存在したという。
東側の毛利元就の墓所を目指して登るのが一般的のようだ。
↓毛利元就の墓へ
いざ、登城開始っ(やっとかよ
)
登り始めて約5分。史跡毛利元就の墓石碑がある場所まで来た。
もう少し登るようだ。
墓所は上下二段構成になっている。
↓毛利一族の墓所
まず下の段は「毛利一族の墓所」。
写真手前から毛利興元(おきもと)、幸松丸、隆元夫人の墓。
興元は元就の兄で10代当主。大河では渡部篤郎さんが役で飲んだくれていた。
幸松丸は興元の子で11代、幼くして次ぐも早世。
隆元夫人は大内重臣・内藤興盛の娘で大内氏・毛利氏との同盟をより強固にするため輿入れした人物。
大河では、確か大塚寧々さん。。
↓毛利元就の墓
そして上の段。上の段は登城路外なので一応見落とし注意だ。
中国の雄・毛利元就公の墓。
67歳のとき、跡を継いでいた隆元を失い、75歳で亡くなるまで毛利家を率いた。
どのような思いだったのか。
墓標としてハリイブキの木が使われている。
右側の白い木がハリイブキ。中国産の珍しい品種。
江戸時代に枯れてしまったが、明治の初めに樫の木が自生して支えている。
↓百万一心碑
墓所のすぐ後ろに百万一心碑が。縦書きに読むと「一日一力・・・」
日を1つに、力を1つに、心を1つにして皆で協力すれば何でも出来るという意味合い。
この文字を刻んだ石を、城の拡張工事の無事を願って人柱の代わりに埋めた、とされる。
↓本丸付近の曲輪図
墓所の横に休憩所があって、休んでいると、この先の事がわかるように縄張図などが掲げられている。
本丸を中心にして、放射状に広がる尾根上にいくつもの曲輪が造られている。
つづく。。。