今日は、難攻不落の高天神城をご紹介っっ
掛川駅から車で約20分ちょっとで到着。。
南側の駐車場に停めて、大手門より登城スタート
↓在りし日の高天神城
駐車場では、まず大きな看板が目に飛び込んでくる。
この図では、山の起伏が描かれていて、現実的でつかみ易い。。
高天神城はザックリ、東峰と西峰の二つを結ぶ尾根によるH字状の構造となっている。
まずは三の丸から本丸を目指す。
↓高天神城案内図
もう一つの看板、、こちらは省略されすぎている(堂の尾曲輪部分が無い)。
しかし、どこに何があるかの情報があり、簡潔で分かり易く描かれている。。
↓追手門
何度も激戦地となった場所で、天正2年には武田方の内藤昌豊、山県昌景が城門に突入。
天正9年には徳川方の松平康忠が城門を焼き落とすなど。
高天神城は、徳川家康と武田勝頼の間で激しい争奪戦が繰り広げられたので有名。
築城の時期はつまびらかでは無いが、室町時代に今川氏の城が置かれたのは間違いない。
今川義元が桶狭間で討死すると、徳川の城となる。
↓三の丸跡
登りめて始めて十数分、早くも三の丸に到着っ
三の丸には土塁が残っているとの情報。
↓三の丸土塁
ふむ、これかな(マニア以外にはただの土のお山だけれども)
三の丸は視界が開けていて、天気が良かったので富士山
も見えたっっっ
でも後で行く御前曲輪(ごぜんぐるわ)でも見れたので、ここでの景色は割愛。。
↓本丸方面へ
本丸へは、さらに高まりの先にあり、たとえ三の丸を落としたとしても、ここで頭上から弓矢が雨あられと降ってくるであろう。。。
↓御前曲輪跡
本丸下段に相当する曲輪。顔はめの記念撮影をする気は、無い。
建物の基礎のようなものがあるが、ここに昭和初期、模擬天守があった、との事。
↓御前曲輪からの見晴らし
眺望は東方面が見れるようになっている。。
正面に富士山っっっ
やはり・・・デ、デカイ
↓高天神城址碑
すぐに本丸に到着。立派な石碑が建つ。
↓本丸跡説明
このように随所に説明板があるので、有難い。
↓本丸土塁跡
三の丸の土塁よりも、明瞭に残っている(こんもりが大きい)。
↓大河内政局石窟
本丸の裏手をぐるっと回り込むと、これが。。見落とし注意だ。
本丸の高まりを利用して、牢がここに現存している(木で塞がれてはいるが)。
大河内政局なる武将は、武田勝頼に攻め落とされた際、一人ここに留まり、勝頼によって幽閉されてしまった。
徳川家康が攻め奪い返すまでの8年間もの間とあるから、ちょっと信じられない。
黒田官兵衛でも2年足らず・・・よくもまあ生きてたものだ。
↓高天神城跡略図
本丸から的場曲輪を過ぎ、鐘曲輪までやってきた。。西尾根とのちょうど中間地点のようだ。
ここでまた、略図と書かれた地図が。これは実際の形・距離感が分かり易く、各曲輪の名前も入っている。
ここに碑やら井戸やらの絵を入れてくれたら、さっきの地図要らんのに・・・
↓かな井戸
井戸曲輪にある、井戸。籠城兵の貴重な水源だったであろう。
城跡に行くとよく井戸跡があるが、このようにフタがされていないのは、珍しい。
↓高天神社の鳥居
↓高天神社へ
↓西の丸
西の丸は岡部丹波守が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれている。
現在は高天神社が建つ。
↓馬場平
神社の裏手をすり抜けると(最初どこへ行けばいいのかわからなかった)広い曲輪に行き着く。
馬場平だ。ここではその名の通り、馬を鍛えた場所なのだろう。
↓馬場平からの眺望
また、南側に眺望が開けていて、見えたぞ、太平洋っ
↓甚五郎抜け道(犬戻り猿戻り)
馬場平は西尾根の南側の先端の曲輪なのだが、行き止まりでは無い。
尾根伝いに細い道を、草を掻き分け、西へ城を抜け出す事ができる秘密の通路なのだ。
現に天正9年の落城の際、軍監・横田甚五郎尹松は本国の武田勝頼に落城を知らせるため、細い尾根道を抜けて逃走することができた。
現在では、城の西にある林の谷池に達する事もできなくはない。難所らしいのでやめておくが・・・
-その2へつづく-