それから十年近くが経った。
大学へ進学した容太は、北海道を離れて東京のアパートで一人暮らしをしていた。大学生活も今年で四年目を迎え、容太はこのまま東京の会社に就職するつもりでいた。
東京の暮らしは楽しかった。
映画館や劇場、巨大なショッピングセンターに遊園地――牧場ばかりの日高にはない世界が東京にはあった。
目まぐるしい暮らしに、容太はプリンのことを忘れかけていた。いや、忘れていたわけではないが、プリンは皐月賞馬の名誉を手にして、幸せな種牡馬生活を送っていると安心していた。
競馬は血統のスポーツと言われる。
サラブレッドは、その祖先を遡ると三頭の馬に辿り着く。三頭の馬から、人間は約三百年かけて、より速く走る馬をつくりだしてきた。
優秀な馬を見分けるのがレースだった。
人々はレースを勝った牡馬や牝馬の子馬を競って手に入れた。子馬をまたレースで走らせ、勝てばさらにその子をつくらせる。こうして改良されたのが、競馬を走っているサラブレッドなのだ。
大レースに勝ったプリンは、引退して種牡馬と呼ばれる父馬になった。馬の寿命は二十歳から二十五歳である。プリンは十三歳ぐらいだから、まだ種牡馬として活躍しているはずだった。強さを伝える血統は大切にされ、種牡馬は幸せな余生が約束される。馬の世界から離れた容太は、そんな風にばくぜんと考えていた。
ある朝、清美から電話がかかってきた。
高校を卒業した清美は、やはり東京のデパートに就職していた。お互いに忙しくてめったに連絡は取れないが、年に一度は日髙から出てきた仲間で親睦会がある。
清美の声は慌てていた。
「古谷君、大変よ、大変なのよ!」
「どうしたの?」
「き、昨日の朝売新聞の夕刊読んだ?」
「いや、朝売はとっていないから・・」
「とにかく、今から古谷君のアパートへ行くから待っていて」
清美は一方的に電話を切った。平日でデパートの仕事が休みなのだろう。容太も今日は大学での講義はなかった。
アパートに清美が駆け込んできた。
そしてバッグから新聞を取り出すと、容太の前に広げた。
『皐月賞馬プリンスバード、哀れな死』
新聞の見出しはプリンの死を伝えていた。
容太は急いで記事を読み始めた。
『およそ十年前、皐月賞優勝、日本ダービー二位の栄誉に輝いたプリンスバードが、先月千葉県南房総にある観光牧場で、ひっそりと亡くなっているのが確認された。
プリンスバードは引退後、種牡馬となったものの活躍する子が現れず、乗馬センターへ引き取られた。しかしそこでも、人を乗せると暴れたりしたため、三ヵ月後にはその観光牧場へ売り渡された。
牧場では、園内イベントや馬のショーで働いていた。今年の夏、中世ヨーロッパの騎馬戦ショーが催された。プリンスバードは、鎧をつけた九十キロ以上の人を乗せ、三週間にわたって炎天下の酷使を強いられた。長期にわたる非情な使役で、プリンスバードは日射病にかかり、飼い葉もほとんど食べられず衰弱死した。
むろん一年に一万頭近く生まれるサラブレッドは、乗馬になることもかなわず死んでいく。だが皐月賞馬として愛された馬の最期としては、あまりにも切なく哀しい流転の生涯である』
もう涙で容太は記事が読めなかった。清美も泣いている。
容太はうめくように名を呼んだ。
「プリン・・」
悔しくてそれ以上言葉にならなかった。幸せな生活をしていると容太は勝手に思い込んでいた。もしプリンの苦しみがわかっていたら、古谷牧場へ引き取ることもできたはずだった。