ブログを読んで頂いている方は説明文ばかりでウンザリされているかと思います。
しかし宗祖という存在は後世の信仰者によって美化されるのが常であり、日蓮の壮年期についてもう少し現実的な考察を加えて行きたいと思います。
お目汚しになりますが、退屈しのぎに文章とは関係が薄い画像も貼らせて頂きます。
さて若きエースとして諸国遊学を終えた日蓮は、32歳で清澄寺に帰山して説法会を開くのですが、「念仏信者は無間地獄に落ちる」と罵って聴衆を激怒させます。
そこに参列していた地頭の東条景信も抜刀して日蓮を殺そうとするのですが、師である道善房の機転で清澄寺を逃れて鎌倉へ赴くという粗筋が映画等でも採用されています。
(これ以降の推論は研究家高橋俊隆氏の解釈を参考に展開します)
ところが立教開宗の翌年、清澄寺の支配権を巡って、父の貫名重忠を荘官に任じた領主(領家)と東条景信との間に訴訟が起きているのです。
「承久の変」後、地頭の権限拡大とともに荘園領主との軋轢が生じ、所領に関する係争が増加していたようです。
東条景信は清澄寺が飼っていた鹿を無断で狩り、幕府の政策もあって、清澄寺の念仏宗化することで支配権を確立しようとしていました。
この画像は横浜市の金沢文庫にある称名寺で、立派な浄土庭園を有する鎌倉幕府の北条実時を開祖とする寺院です。
当然日蓮は恩のある領主(領家の尼)側の代表として訴訟に係わり、勝訴したために東条景信から恨まれて鎌倉へ逃げることになったという資料があります。
現実的に考えますと、説法会で鎌倉へ逃れていたら訴訟に関与するのは難しいことから、やはり説法会で東条景信との刃傷沙汰はなかったとすべきでしょう。
また日蓮には生死に係わる四大法難(後述)があるのですが、「清澄寺の法難」が存在しないところを見ても、説法会に東条景信は参列していなかったとする方が自然です。
ところがこの係争は、後々1264年に小松原法難(千葉県鴨川市)の悲劇への遠因になるとともに、師である道善房への不信感として日蓮に鬱積して行くのです。
『本尊問答抄』(1278年:日蓮57歳)では、清澄寺にいた東条景信派の念仏僧侶を扇動して道善房を責め、弟子の日蓮を勘当に追い込んだと晩年恨み言を綴っています。
これを以って、日蓮は清澄寺・道善房と絶縁孤立して、鎌倉名越の松葉ヶ谷に草庵を構えて本格的な布教を始めることになります。