日蓮宗関連寺院(一)【3】千光山 清澄寺(千葉県鴨川市清澄)No.4 | 遊行聖の寺社巡り三昧                            Yugyohijiri no Jishameguri Zanmai

さていよいよ諸国遊学から帰山した32歳の日蓮が、旭が森で立教開宗するとともに説法会で反発を招いて清澄寺を追われる段となります。

この場面を映画『日蓮』(原作:川口松太郎)を要約すると次のような粗筋になります。

遊学を終えて帰山した日蓮は、「南無妙法蓮華経」と法華経の弘教を決意して、清澄寺で安房国長狭郡東条郷の地頭である東条景信や信者等を招いて説法会を開きます。

そこで日蓮は法華経こそが唯一の仏法であり、東条景信が信心している念仏信者は無間地獄に落ちると断言して殺害されそうになります。

これは日蓮を後継者と考えていた師の道善房をも裏切る説法でしたが、道善房は断腸の思いで兄弟子の浄顕房・義浄房を守護につけて日蓮を清澄寺から逃がしてやります。

大滝秀治演じる道善房の日蓮への慈しみに涙する映画前半の山場です。

清澄寺旭が森に立つ日蓮像です。

「我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん」と映画では清澄寺旭が森で請願していますが、本当は遊学中の伊勢神宮で請願したものです。

清澄寺には日蓮の修行した霊跡が復元されているのですが、どうも案内看板を書くのが苦手なようで見るに堪えないものが現存しています。

さてこの場面を日蓮の出自を含めて再考してみたいと思います。

佐渡流罪時に書かれた『佐渡御勘気抄』等に、「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅(せんだら)が子なり」と自ら語っています。

旃陀羅はインドの被差別民への呼称(チャンドラ)から来ており、当時の仏教的には殺生を営みにする海辺に住む漁師の子と解釈するケースが多いようです。

その旃陀羅の子が、既に大寺院であった清澄寺に入山・出家し、鎌倉・京都・奈良まで16年も遊学できたのかが私には疑問でなりませんでした。

いくら才覚があっても孤立無援の旃陀羅であるならば、まず寺院から門前払いされますし、生きて行くために16年もの遊学をする余裕などありません。

たまたま千葉県鴨川市の日蓮伝説マップなるものを見ていた際、小湊の山間に東光山西連寺があり、日蓮の乳母の墓があるという記事を見つけました。

西連寺は慈覚大師の開基であり、日蓮の父、貫名重忠が小湊へ流れ着いた際、小湊代官滝口三郎左衛門が援助し、娘の雪女が乳母となり日蓮を12歳まで育てたと伝承されています。

そもそも貫名家は遠江国の武家の出自で、有名な井伊家とは親族であり、その四代目が重忠でしたが、鎌倉初期の伊勢平氏の乱に加担して流罪にされたと言われています。

ところが重忠は官吏としての才覚があり、東条郷の領主、名越朝時(北条義時の次男)の継室であった領家の尼の信任が厚く荘園の管理を任されていたようです。

つまり、乳母に育てられた日蓮が貧しい被差別民であったとは考えられません。

父親は不幸であったものの先進地域の技能者であり、後に書きますが母親も、乳母を雇い入れるだけの有力御家人の娘であったと考えて良いでしょう。

改めて考えてみれば、立教初期から日蓮が富木常忍や大田乗明、四条金吾等の有力御家人を壇越としていたことがその血筋の証明になるでしょう。

しかも西連寺第二十一世住職が道善房であり、彼が持仏堂の房主として清澄寺に昇る際に日蓮を鳴り物入りで入山させたと考えるのが順当でしょう。

ならば日蓮は清澄寺を担うエースとして衆目を集めていたわけで、それ故に16年にわたる遊学も許されたのではないかと考えます。

次回は日蓮宗から悪者と評される地頭の東条景信、そして師たる道善房への悪口について書くことにしましょう。

これは綺麗な活字の案内板です。