人間万事塞翁が馬(随筆)【9】平塚七福神巡り | 遊行聖の寺社巡り三昧                            Yugyohijiri no Jishameguri Zanmai

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元三慈恵大師(角・鬼・豆)関連グッズと良源研究、オモシロ絵馬、仏像鑑賞、日蓮大聖人像、一遍上人像、キリスト看板、自作官能小説、随筆等々、蒐集したコレクションを常設展示します。当ブログは『豆々朗師のオモシロ寺社巡り』のリメイク版になります。

2023年12月2日(土)、再び神奈川県平塚市を遊行せざるを得なくなりました。

前回の遊行は『人間万事塞翁が馬(随筆)【4】平塚遊行』で書きましたが、平塚市美術館で横浜真葛焼(初代宮川香山)を鑑賞するための旅でした。

その際、平塚八幡宮に立ち寄ったのですが、大好きな『鳥獣戯画』似のウサギとカエルをデザインした「平塚七福神巡り」の台紙を授与頂きました。

そしてその日、偶然に訪ねた平塚鬼子母神の妙安寺さんが七福神巡りに参加しており、平塚八幡宮の弁財天と大黒天がたまたま揃ってしまったのです。

そうなると残りを集めたくなるのが人情で、旧東海道を西へ東へ、3時間半歩いて平塚七福神巡りを完成させました。

ちなみに「鳶目兎耳(えんもくとじ)」とは、見聞(情報収集)に優れた能力を持つことを意味します。

平塚市の企画とは言え、お忙しい休日にも拘わらず、何処の馬の骨ともわからぬ遊行聖を全ての寺社が快く応対して下さったことを記しておきます。

中でも、「【4】平塚遊行」で書いた大黒天の妙安寺さん、そして今回は毘沙門天の要法寺さんが本堂まで案内して頂きました。

日蓮宗の要法寺さんは、若いご住職のお母上が気さくな方で、「ちょっとならいいわよ」と写真撮影も許して頂けました。

河野太郎さんが書いた扁額です。

要法寺さんの開創は古く、1282年、鎌倉幕府執権北条泰時の弟、平塚左衛門尉泰知が、ある晩「日蓮上人がこの地に立ち寄る」という七面天女のお告げを受けたそうです。

そして日蓮上人を自らの邸宅に迎え入れてご説法頂いたところ、平塚の「塚」の松に紫雲がたなびいたそうです。

深く感動した泰知は邸宅を献上して寺とし、日蓮上人より、紫雲のたなびく様から「松雲山」四句説法にちなみ「要法寺」という山号と寺号を頂いたと伝えられています。

おそらく一遍上人なら「紫雲のことは紫雲にとへ、一遍は知らず」と言うところです。

1282年と言うと日蓮大聖人が61歳ですから、病を発して身延を下山し常陸へ湯治に行く途上であり、この後、東京都大田区池上で入滅されることとなります。

ちなみに、その「塚」は要法寺の旧寺領にあり、桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子が都から東国へ下向の途上、長旅の疲れから急な病で亡くなった墓所です。

時を経て何時しか「塚」は風化して平たくなり、この地域を「平塚」と呼ぶようになったとお母上が説明して下さいました。

なお、要法寺さんでは七面大明神(天女)をお祀りしており、これはまた『仏像を訪ねて』で書くつもりですが、鬼子母神・十羅刹女と並ぶ法華経の守護女神です。

六老僧の日朗上人と身延の南部實長公が七面山に登山して、七面大明神を勧請したと言われています。

お母上のご厚意でそのお姿も撮影させて頂いたのですが、ここでは門前の石碑で替えさせて頂きます。

ちなみにお母上は七面山(かなり厳しい登山です)に登ったことがあるそうで、次回は是非ご一緒にということになりました。