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城新聞

-Japanese castle press-
Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.

13:50 愛宕神社境内到着 

やっと黒門へ 我ながら時間がかかりすぎ 情けない 

年齢不詳の光秀(66歳or54歳説あり)は亀岡からのルートで登ったそうだが、ホントに登ったのだろうか 

社務所 

このあたりで連歌師の里村紹巴らと「愛宕百韻」を詠んだと云われるが当時の人は誰もが足腰が闊達だったのだろうか 

光秀が戦勝祈願したのも「愛宕百韻」を詠んだのも麓にある愛宕念仏寺あたりじゃないのか 

自分の足腰の弱さを棚に上げ、疑いたくなる

社務所にあった自販機でビタミンMATCHを購入 

一気飲み×2本 登山中、水分を取ってなかった

奥宮社到着 

ここにいる神主さんたちは毎日登ってきているだろうか 

雨の日はどうしているんだろうか 

雪道でも登山するって滑落しないか 下山するとき山道は真っ暗じゃないか 

他に車で登る秘密のルートがあるんじゃないか 

もはや本能寺の変そっちのけ 

当時、主旨がズレまくりの脳内だった

14:50 下山開始 

最終バスが16:50 

2時間で下山できるか 

滞在時間わずか10分 

山頂から京都市街地を望む暇もなく下山開始

16:30 最終バスに間に合わった! 

思ったより早く無事下山 

 

熊も出没することに今更気付く 

さらには富士山も登っても頑丈で、雨の日も重宝したGTXのトレッキングシューズが気づいたらアウトソールが剥がれた

愛宕神社を振り返ってみて 

 

それなりにハードな道のりは予想していたが、山頂まで光秀ら参拝した上に連歌をするような場所とは未だに思えない 

 

ちなみに1929年から16年間、黒門下あたりまでケーブルカーが運行しており、 さらにはスキー場や遊園地もあったとか

Netflixドラマ 舞妓さんちのまかないさん 

 

マンガが原作で映画監督の是枝裕和氏が脚本 

この中でも愛宕神社が登場 主人公が千日詣りで「火廼用心(ひのようじん)」のお札をもらいに行くシーンもあり 

是枝ワールド万歳の芹生と空気感 

 

必見

 

 

 

愛宕神社 

 

本能寺の変直前の5/27、光秀が戦勝祈願した彼の地へ 

光秀の拠点・亀山城から北に位置する愛宕山は標高差約850m

 

JR嵯峨嵐山駅⇒清滝行きのバスに乗車し清滝ルート登山口に到着

画像

清滝ルートは表参道でもあり、その距離約4.5km 他にも8つルートがあるとか

時刻は10:18 

 

「山岳事故多発11:30以降の登山おやめ下さい」の看板が目に止まる 恐るべし愛宕神社 

 

さすが全国900近く分社をもつ総本宮 鳥居をくぐり、いよいよ登山開始

登山を始めてから15分後 

見えてきたのは、「火燧権現跡(ひうちごんげんあと)」 

愛宕神社は、防火・鎮火の神様として有名で、お札は「火廼用心(ひのようじん)」のご利益があるそう

正午 30丁目にある休憩所に到着 

50丁目が山頂なのでやっと半分越えた地点 


 

ここまで平地がなく、登り続きだったため休憩時間が長くなる 

平地の民としては、この傾斜はどうも使う筋肉が違うようで、、、 後からの登山者、参拝者に抜かされていき呆然

 

 

 

徳川家康は総距離200kmを2泊3日で越えた 

 

実際にできるのか確かめるべく、伊賀越えしたルート(岡崎→堺)を反対に辿った『逆⇔神君伊賀越え』 

以前紹介した通り、現地に行って観たり聴いたり、後から調べたりする中でいろいろな発見があり、本当に楽しかった 

そして、第2弾を新たに紹介したいと思う

 

家康がなぜ伊賀越えをしなければならなかったのか 

 

明智光秀が「本能寺の変」を起こしたからだ 

でも、光秀がなぜ「本能寺の変」を起こしたかは今でも明らかになっていない 

ただ、本能寺から居城の亀山城までまた逆の道のりを辿ることで面白い発見ができればと思い、総距離20kmの道のりを挑戦した

 

藤沢周平著 「逆軍の旗」   

 

と、その前に明智光秀が本能寺に向かう道中も描かれていた同書を再読 

短編ながらその細やかな心理描写は見事 初読のときに気付かなかったのか、それとも忘れていたのか 

そんな情景もいくつかあり、また跡地を確かめるべく、さらに行く前にテンションが高まった  

 

 

 

 家康一行は総距離200kmを2泊3日で越えられたのか 

 

この道のりを遡ってみて、調べてみての答えは『できなくはない』だった

【理由その1】 

200kmのうち乗馬による移動が大半 


全て乗馬だったという説もあるが、3日のうち1日程度(40km)は山越えのため徒歩で越えていたと思う 

この距離なら現代人の体力でも越えられなくはない 

ちなみに200kmのうち、三重⇔愛知間の30km程度は夜の海を船で渡っている

【理由その2】 

護衛面もぬかりなかった 


襲撃を受けた主な所は、伊賀の入口と出口にあたる2箇所だったことが判明 

伊賀側からすれば門番として家康を通過させることに害がないかの確認程度に思えた 

また、地元の案内人、甲賀軍の護衛をつけ、1里(4km)、1刻(2時間)単位で計画的に通過しており、護衛面も万全だった

 

『できなくはない』はズルいけれど、 草鞋で歩いたこともないし、自分で調べた情報が全て正しいとも限らないので笑 

ただ、伊賀越えの道中を実際に辿ってみて、肌感では『できる』手ごたえはあった

 

 

他にも道中、気になったことを調べてみての仮説をとりあえず5つ 

 

これからまた気になったことが出てきたら調べてみようと思う

【まとめ】 

家康は3日で200kmの伊賀越えをして岡崎に逃げ帰るどころか、さらに甲信駿3カ国を狙うため同時に動いていた 

つまり中国大返しをした秀吉よりもっと先に織田家領地を着手していたのだ 

っていう、まるでサスペンス映画のような結末 

こちらの予想を遥かに越えていて、最後の最後でそのことに気づいた

久しぶりの遠征だったが、無事帰京できたし、楽しい夏休みなった

 

■おまけ■

加藤廣著 『家康に訊け』 

 

著者晩年の作品 

 

前半は家康の功績 

後半は関ヶ原の戦い後の福島正則周辺での2部構成の物語が連ねてある 

 

家康は調べれば調べるほど奥が深い 

もし今、誰かに「家康は、良い人なのか、悪い人なのか?」と訊かれたら「偉大な人だ」と答えるつもりだ

 

それからの家康

 

岡崎に帰還した家康一行 

すでに伊賀越え中の6月4日、蒲生賢秀、氏郷父子に信長の弔い合戦として光秀を討つ決意の書状を送り、帰還後、翌日5日に家臣に出陣命令を出している 

神君にとって伊賀越えは逃げ帰るだけのゴールではなく、どうやら通過点だったようだ

 

悪天候等の理由に出陣は延び、ようやく14日に岡崎城を出陣し、桶狭間の先、鳴海へ着陣 

残念ながらその前日、秀吉が山崎の戦いで光秀を討ち果たしていた

 19日、その秀吉から「光秀を討ったので帰陣されるように」という連絡を受け岡崎城に戻った 

だが、またしても家康はそこで終わりではなかった

 

岡崎に帰還した翌日、信長の弔い合戦の準備をする一方、密かに領内に匿っていた武田遺臣たちを招集 

まずは伊賀越えで戦死した

穴山梅雪の領地を6月6日に駿河国江尻を併呑

 

さらに甲斐・信濃の旧武田遺臣らが起こした国人一揆を治め、6月27日の清洲会議で家康の行動について織田氏重臣の同意が得られていたようだ

秀吉も7月7日に甲斐・信濃確保を認める書状も送ったとか

 

結果、信長の弔い合戦と言いながら甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5か国(一部除く)の大大名になっていた

 

奈良、若草山を後にして、同志社大学京田辺キャンパスを通過して3日目、最終日いよいよ開始 

ここ尊延寺で京都から大阪の県境を通過してようやくあることに気づいた

 

普賢寺-尊延寺の距離 ⇒約4km 

 

そう、京都と大阪の県境辺りは、京田辺の隣、高槻、茨木は光秀の与力だった高山右近や中川清秀の領土だった 

彼らは山崎の戦いで秀吉に与し、結果的に光秀の敵となるがこのあたりで家康一行を襲ってもおかしくはなかった 

というか光秀、秀吉どちらに与しても家康を討ち取れば手柄になったはず

 

尊延寺は、京田辺に隣接している大阪府枚方にあり、市域の大部分が丘陵地帯となっている 

家康一行はこの尊延寺地区を通ったと云われているそうだが、この地区は信長と敵対していた本願寺勢力の寺内町だった

 

尊延寺-四條畷の距離 ⇒約15km 

四條畷に近づくにつれ、道が狭くなっていく 

家康にとって本能寺の変が起こらなかったら信長に会うためこのまま京都へ進んでいたはずの道 

また、この時は信長の生存情報等も錯綜していて家康も伊賀越えの決断に迷っていてもおかしくはない

 

 

四條畷神社 

飯盛山の麓に位置し、楠木正成の息子、正行を主祭神とした神社 

この辺りで正午頃、家康らは本能寺の変を知ることになる 

 

前述の本願寺勢や高山右近らが家康を襲わなかったのは、深慮な彼らも信長の生死が不明、謀反者の光秀にこのまま与するかまだ判断がつかなかったかもしれない

四條畷神社-堺の距離 ⇒約28km 

 

四條畷神社付近に正午に着いたとすると徒歩での速さでなら堺を朝6時には出発したことになる 

この道のりはまだ本能寺の変の知らせは受けていないはずで、堺から本能寺あたりまでその日のうちに上洛する予定だったかもしれない

 

千利休屋敷趾 

ゴールの堺に着く前に最後の寄り道 

当時の敷地と同じ広さかは不明だが、跡地はこじんまりとしていた 

 

 

現在でいえば東京・両国にある吉良屋敷趾に趣きがよく似ている 

千利休は後に秀吉政権で悲運な結末を迎えるが信長が生存していたらどのような人生だったかまた気になるところだ

 

神君伊賀越えのスタート地点 

 

堺駅にてゴール(8月13日13時) 

改札口の上部にはスペイン、ポルトガルとの"南蛮貿易"で栄えた中世堺の面影を残すパネルが展示されていた 

この時期、台風で新幹線が計画運休の情報もあり、速攻このまま新大阪へ 

指定席もなんとか手に入れることができ、無事帰京

さらに京都へ進み、山口城へ

 

遍照院-山口城の距離 ⇒約8.6km 


通ってみて坂道はあるものの、谷間が続くルートだったので馬でも移動できるかと思った 

だが、文献によると12時にここで昼食を取り、遍照院へ14時に到着したとある 

時間で換算するなら徒歩でのスピードになる

現地の案内板によると山口城は信長の命によって山口秀康が築城したとあった 

縄張りは今は茶畑となっているが、近年石垣の巨石が発見されたとか 

安全面でここで一泊も考えたのではないだろうか 

ちなみにここで馬を乗り換え信楽(小川城)に向かったと現地の案内板に記されており、徒歩ではなかったことがここで発覚

 

そして木津川を渡るため草内の渡しへ

 

山口城-草内の渡しの距離 ⇒約7.7km 

文献では山口城から新主膳正末景という武将ら出迎えたとあり、岸辺で予め待機していたのだろう 

前述の通り乗馬で移動したことが判明したが、徒歩の速度と変わらないため供廻りが馬を引いての移動だったと思う 

なるほど納得

 

朝の8時にこの木津川を船で渡った家康一行 

現地の案内板には「この渡しのふきんでしんがりをつとめた家臣の穴山梅雪が命を落とした」とあった 

"しんがり"、"家臣"というワードがとても気になる

 

草内の渡しの手前あった穴山梅雪の墓 

渡しから南へ約2.5kmの所に位置し、近くには飯岡古墳群がある 

現地の案内板によるとこの付近から梅雪が主将となり家康と二手に分かれて宿泊
信長憎しの土民集団を引き受けて最後は自害したと地元では口伝されているそう

 

普賢寺 

 

草内の渡し-普賢寺の距離 ⇒約5km 

本能寺の変の翌日、6月3日の6時〜7時にこのルートを通過 

これまで紹介してきた伊賀、甲賀の道より単調だが、民家が多く、統制のない土民の方が動きの予測がつかないため、いきなり襲われたらむしろやっかいだったかもしれない

 

 

 

家康一行1日目の宿泊地 

実際は近隣の農家に宿泊したとか 

 

協力してくれた地元農民たちの案内を受け興戸を経由し進んだとされる 

ちなみに調べてみたら近隣の南山城村は1580年から明智光秀の飛び地の領地だったことが判明 

木津川の渡河を家康や梅雪がなぜそこまで警戒していたかの理由がよくわかった

普賢寺を訪ねた後、 逆⇔神君伊賀越え2日目、これにて終了 

 

本日の宿泊先、奈良の新大宮へ 

宿泊先近くの餃子屋さんで夕食 

明日に備えて昨日に続き早めの就寝

若草山 

逆⇔神君伊賀越えのルートに戻る前にせっかく奈良に来たので、翌朝、寄り道して若草山山頂へ初ドライブ 

昨年行ってきた平城京らしき跡地が右中間あたりに見えるような見えないような 

この市街地全体を眺めていると、奈良は東西を軸に形成された都だと改めて感じる

 

 

 

 

今度は三重県と滋賀県の県境越え

 

音羽-小川城の距離 ⇒約12km 

 

地図を見て音羽は伊賀の入口だったことに気づく 

 

だとすれば、神君伊賀越えルートにおいて、伊賀十二評定衆の中では門番的な役割を果たさなければならなかったはずだ 

簡単には素通りさせられなかった事情がよくわかった

 

西山の棚田   

小川城へ向かう前に1本道を間違え"棚田''標識を発見 

山道でこの標識が目に入るとつい寄り道してしまう 

 

伊賀市北西部に位置するこの棚田は、現地の看板に令和4年3月(2022年)、 日本の棚田百選に認定された表記があった 

ちなみに棚田が荒廃する場合もあることから百選は再選定もあるとか

 

街道をゆく-甲賀と伊賀のみち   

 

さらに小川城への道へ戻る途中、司馬遼太郎文学碑を発見 直木賞作品「梟の城」の舞台にもなった場所でもあるとか 

以前読んだが内容はすっかり忘れてた改めて読み直したい 

作品の舞台となった現地へ行ってからの再読は読書の醍醐味 

もしくは旅行の醍醐味かもしれない

 

 

 

小川城 

家康一行が堺を出発してから2日目の晩、ここで一夜を過ごした

和田惟政の弟、甲賀の和田定教と合流し、早朝に出発したそう

 

麓から本城のある山頂まで徒歩およそ30分 現在、草は生い茂っているものの、当時は見渡しの良かったことが見てわかった 

神君伊賀越えの後日談だが、小川城は、 1585年頃に城主の多羅尾光俊によって大規模改修 

だが、光俊の娘が豊臣秀次に嫁いでおり、秀次の切腹に連座して改易 

それから廃城となった

 

妙福寺 

家康が宿泊したと云われるもう1つの場所 

 

現在は清光寺となっており、境内にはこの地元、信楽焼きで有名なたぬきの置物があった

妙福寺は、小川城の複合型城郭で一画としてあったようで境内の裏手に城跡があった 

 

山頂にある本城よりおそらくこちらで宿泊した可能性が高いだろう

ちなみに廃城した小川城だが、家康にとって恩義のある多羅尾氏は江戸時代には旗本となり多羅尾代官陣屋として復活 

 

幕末まで世襲代官として存続したそうだ

 

伊賀から甲賀、そしてまた今度は山城へいく

『裏白峠 』へ

 

車では13分

だが家康一行はこの10kmの山道を夕方から夜半にかけて越えたようだ

 

これはしんどいし危険 

交通ガイド的な役割として地元領民がガイドしたそうだが、他にも斥候の役割として先を歩いた家臣もいただろう

 

 

裏白峠は山城と近江の国境だったが現在も京都と滋賀の県境 

 

白子浜からここまで約90kmの距離を5時間のペースで通過🚙

家康一行と比べて1/3の時間で来ているが、体力的には1/10以下

まだまだ行ける

遍照院 

 

裏白峠-遍照院の距離 ⇒約2km 

 

国境の裏白峠を通過して2日目の宿泊地まで小川城までの距離が約12km 

1里=4kmだから3里の距離になる 

1区間を3里から2里のペースを保ち、やはり慎重に計算して進んでいたことがわかる

 

遍照院に到着したのは14時頃

現地の案内板によるとここで新しい案内人も加わり、物見と連絡をとりながら進んだと記してあった

ここで休憩して今後の道筋、警戒、手段の相談をしたそう 

2時間程度、近江に入る前に伊賀越えも含めて作戦をたてたと思う 

次なる目的地まで車で約10分 

 

家康がいた当時の状況を考えると、この伊賀越えルートが異なっていようが、馬を使っていようが、とにかくこんな山々を家康一行たち全員越えて岡崎まで3日で到達したこと自体が改めてスゴい 

 

加太-徳永寺の距離 ⇒約10km

 

徳永寺 

伊賀市と亀山市の中間に位置する柘植にあるお寺 

江戸時代に入って、藤堂高虎が伊賀藩の藩主になって以降も神君伊賀越えの恩から寄進していたそう 

 

境内には案内板にこの徳永寺で伊賀越えの際、立ち寄ったことが記載されていた

 

福地城 

途中、道路標識を傍の案内板を発見して立ち寄る 

福地城は伊賀有数の豪族・福地氏によって築かれた城 

1581年の「第2次天正伊賀の乱」の際、福地宗隆は信長に味方し、侵攻軍の道案内 

それにより伊賀平定後に所領を安堵されたが、裏切り者としていたたまれず、他国へ逃亡したとか

 

 

萬壽寺

 福地は、松尾芭蕉の出身地であり、また 萬壽寺は、松尾家の菩提寺でもあるそう 

関の瑞光寺同様、家紋の入った瓦屋根が境内で発見

 

徳永寺の次は「音羽」
 
徳永寺-音羽の距離 ⇒約13km 
 
音羽は伊賀の中心部から北部にあたり、 ここでも襲撃されたようだ
仮に前述の雑兵200人を家康一行35人+案内人5人程度で戦ったとすると、1人あたり5人を相手にしなければならなかった換算になる 
本田忠勝なら20人は相手していたかも!?
 

 

音羽氏城 

川俣城と同じく偶然発見 

後で調べてみたら 伊賀十二評定衆のひとり、音羽半六が城主だった説あり 

1581年の「第二次天正伊賀の乱」後に廃城となったらしい

 

となると家康一行が通過したときは城主不在だったことも考えられる

 

 

 

 

音羽地区にある西音寺と佐々神社

 

狙撃しやすいこの立地

甲冑を付けていない35人の家康一行を狙う立場で考えると

鉄砲や弓矢、罠を仕掛ければ無傷では通らせなかったと思う 

おそらく最終的には武力ではなく、

音羽氏などこの地の主がなんらかの交渉の末、通行許可を出したのだろう

 

御斎峠(おととぎとうげ)周辺 

 

峠から伊賀上野の市街地を望める 

この景色を観て、 音羽衆が家康一行を襲ったのは、

通行可否や処置をどうするか伊賀十二評定衆の本部へ相談に行くための時間稼ぎだったのではふと思った 

伊賀上野にあった本部・平楽寺へ思案顔で訊ねに行った音羽領主の姿が目に浮かんだ

 

 

いよいよこれから本番の伊賀越え 

家康が船で尾張、三河と渡ったと云われる鈴鹿市の白子港からスタート 

途中、コンビニで買った鈴鹿ご当地のわらび餅で腹ごしらえ

この日は晴れて海は穏やか 

家康が渡った時は6月の梅雨の時期だったが天候と海は荒れてなかったか気になった

 

鈴鹿サーキット 

次の目的地に向かう途中に通過 

F1日本グランプリをはじめモータースポーツの聖地 

寄り道はせず車中越しからの景色 

写真には収められなかったけど、

壮大な外観と佇まいに自ずとテンション上がった

関 

6/4(西暦6/23)現在の亀山市、木崎町の瑞光寺に到着

家康一行はちょっと休憩したされる 

境内には家康が上洛時に立ち寄り食べた"権現柿"があり、どうやら伊賀越え以外にも立ち寄っていた様子 

 

関には宿場町だった雰囲気が今も残っていた

 

瑞光寺には、亀山城主、関家の菩提寺もある

平家の血筋である関氏の家紋(揚羽蝶)が入った瓦屋根がなぜか境内に 

 

ちなみに 白子浜-関の距離⇒約20km 

白子浜に到着したのが21時頃だったそうだから関に着いたときは徒歩なら16時頃になる 

ただし、白子からここまではまだ急な坂道はなかったので、おそらく馬で移動した可能性もあると思う

 


加太峠

「山賊のすみか」と云われた難所を通過 

関宿-加太の距離 ⇒約6km 

 

車なら約10分程度だが、整備された国道25号でも急な坂があり、

おそらくここは徒歩で1時間以上かけて通過したと思われる 

山賊を警戒するなら日没前、15時から17時あたりには通過していただろう

 

川俣城 

国道25号線沿いにて偶然発見 

築城者は鹿伏兎氏で南北朝時代に築かれ、

1414年北畠満雅がそれまで御霊ヶ丘陣屋と呼ばれていたのを川俣城と改めたらしい 

このあたりで家康一行は一揆に襲われたが山口定教率いる甲賀郷士が追い払った説あり 

この時、川俣城主は敵だったか味方だったか、いかに

 

ちなみに家康一行35名の名前を調べて当時の年齢を計算してみた 

最年長⇒酒井忠次55歳 最年少⇒鳥居お松(男)16歳 

雑兵200人討ち取ったり、時には山賊などに金品を与えたりして通過したらしいが、

大河ドラマ「どうする家康」版の伊賀越えのように途中で分かれた説があってもおかしくない