第379号藤岡城 | 城新聞

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-Japanese castle press-
Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.


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藤岡城は平将門によって築城されたと伝承されており、将門が940年に藤原秀郷によって討たれると、藤岡城もいったん滅びます。なおこの頃、藤岡城は花岡城と呼ばれていました。それから約60年後、藤姓足利成行が再興して中泉城と称し、成行は、一族の佐貫重光を中泉城を城主としました。その後、1205年、足利忠行が中泉城に入り、忠行は富士忠国と称し、忠国から4代目の房行の時、藤岡姓を名乗ってこの時はじめて藤岡城と称するようになったそうです。戦国時代を迎えた頃の藤岡氏は佐野氏に属していましたが、後北条氏が北関東へ侵出すると藤岡清房は次第に後北条氏へと接近するようになりました。1577年4月、佐野宗綱は藤岡城へ攻め込み清房を自害させましたが、後北条氏が介入し清房の息子又太郎を城主とし幼君に代わって茂呂弾正久重が城代となりました。佐野宗綱は同年7月にも再度藤岡城を攻めましたが後北条氏が援軍を差し向けたために勝敗は決しませんでした。やがて1590年の豊臣秀吉による小田原攻めが開始されると秀吉と結んだ佐野軍によって藤岡城は落城し平安以来の歴史を持つこの名城も廃城となりました。
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東武日光線の藤岡駅前から徒歩8分程度。観光案内図にも記載され城址への道筋には道標が設置されわかりやすいです。
【近隣の高校】
開智未来中学校・高等学校
2010年3月をもって閉校した埼玉県立北川辺高等学校の校地や施設を引き継いだ形での新設ですが、公立校の跡地に私立校が置かれるのは珍しいことであるそうです。埼玉県内だけでなく群馬県、栃木県などの近隣県からの生徒の獲得も学校の視野に入っており、最終的には中高合わせて約1千人規模の確保が計画されています。