城新聞

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-Japanese castle press-
Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.



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逆⇔中国大返し-まとめ- 

 

1日目⇒山崎古戦場~姫路城108km 

2日目⇒姫路城~備中高松城92km 

 

秀吉が本能寺の変の黒幕かどうか辿って調べる前は怪しいとみていた 

ところが、最後まで調べてみて想像を超える行動力と実績を残していたことがわかり想定外連発 

結果としてまさかの黒幕否定説に考えに覆った

 

改めて一連を振り返ってみて、中国大返しからの山崎の戦いは、日本史上屈指の戦であり、ここだけ切り取るのならば秀吉は最も勇敢な武将としてもっと賞賛されるべきとすら思った 

だが、それが天下人となった後、秀吉の諸々の行いが自分自身を貶め、最後には豊臣家は滅んだ

 

 

繰り返しになるが、今回の目的は当初「本能寺の変の黒幕」を答えを見つけたいという思いがあった 

だが、そもそも優れた信長配下らが信長の行動を観て、いつ討つか討たれるか 

近年の地震や台風の防災の如くその有事に備えていてもおかしくない 

言い換えると『信長配下全員が黒幕』という答えにはなる

 

 

状況次第で秀吉が本能寺の変を先に起こし、逆に光秀が信長の弔い合戦で山崎合戦を挑んだかもしれない 

ただし、畿内の大名らが光秀に与するかと言えばそれはまた違って調略のうまい秀吉に与して結局秀吉の勝利は変わらなかったかもしれない 

今更ながら、それが戦国時代だったとさいごにやっと気づいた

逆⇔中国大返し-その22- 

 

備中高松城 沼城を出発して約30分後、最上稲荷の大鳥居(1972年建立)をくぐり、目的地に到着 

同時に200kmの旅路もこれでゴール(2023/10/8 15:40)

 

この史跡の訪問は縁あって今回で5回目 

訪れる時はいつも晴れていたものの、この時は小雨で合戦当時に近い天候を若干体感できた

 

高松城の水攻め 

 

忍城の戦い、太田城の戦いとともに「日本三大水攻め」の1つとして知られている 

堤防の工事には士卒や農民らを動員 

高額な報酬を与えることにより東南約4kmの堤防は12日間で完成 

さらには梅雨で降り続いた雨により足守川が増水し、200haの人口湖が出現 高松城を孤島にしてしまった

 

 

現地にあった堤防の高さを表す表示板によると8.4m 

本丸の高さは7mはあったそう 

肝心の人口湖の水深については記載がなかったので別途調べてみたところ、備中高松城の付近では水深150cmほどだったらしい

 

 

高松城主清水宗治 

 

家臣の助命と毛利家への忠義のため秀吉軍との講和条件である自身の切腹を受諾 

享年46歳 

その忠死を賞賛した秀吉は後に宗治の息子景治を直臣になるよう勧誘 

しかし、景治は断り毛利氏に残留を選択 清水家の子孫は明治維新まで存続し、男爵にまで叙された

 

その後の備中高松城 

 

中国大返しを経て、光秀を倒した秀吉 

この城には、宇喜多氏の家老花房正成(当時27歳)城主として入城 ちなみにこの戦いで水攻めを秀吉に提案したのは一説には正成とも云われているとか 

関ヶ原の戦い後、数年はここに陣屋を構えたが、一国一城令に伴い、やがて廃城となった

 

 

宗治蓮 

1982年に岡山市が歴史公園造成計画により、かつて縄張りにあった沼を復元 

復元が完成したところ蓮が自然に生えてきたそうで、この名前が名付けられたとか

 

亀山城(沼城)⇒備中高松城 

 

約20km強の距離 

車で30分程度、徒歩の場合6h強 

備中高松城の方が緯度が高く、もっと北部にあると思っていたが地図で見るとほぼ同一 

半日で移動可能な距離だが、高松発は①6/4午後説、②6/6未明説とあり、①の場合、野殿で野営したとも云われている

 

光秀の密使 

 

光秀が毛利氏に向けて送った密使を秀吉側が6/3夜〜4未明に捕縛して本能寺の変をいち早く知ったことは有名な話だが、その捕縛した場所が野殿に近い庭瀬だったらしい 

備中高松の目前で捕まるとは光秀も運が悪い 

ちなみに密使は飛脚ではなく、藤田伝八郎という明智氏家臣の説もある

 

 

秀吉の手紙

 

ちなみに6/5に秀吉は摂津茨木城の城主中川清秀からきた手紙には次のように返書 

『信長、信忠も無事に難を切り抜け、大津市まで逃れたとのこと。自分も早く帰城します』 

と、明らかな虚偽の情報だが、清秀の動揺を鎮め、摂津の大名たちを光秀に与させないように情報操作を謀った秀吉

 

船坂峠⇒沼城(亀山城) 

 

次は宇喜多直家のかつての居城へ 

約30kmの道のり 車で30分強、徒歩8時間半強 

今更ながら徒歩より約17倍の速さで辿り着ける車ってやっぱり凄い 

中国大返しから今日まで442年という年月が経過したが、を人類の進化を実感すると言いつつ、信長より30歳上回り、現代まで生息しているサメもまた凄い

 

 

沼城(亀山城) 

秀吉軍が備中高松城の陣を引き払って撤退し、中国大返しを開始してから最初の休憩ポイント 

宇喜多直家が14年間居城し、嫡男秀家にとっては生誕の地でもある重要な拠点だった 

中国大返しの時は、直家は半年前にすでに他界、秀家は岡山城に移っており、城主は直家の弟、春家だった宇喜多家 

光秀が毛利家と手を組もうとして失敗したことは有名だが、どうやら宇喜多家も光秀に通じていた説もあるらしい 

そのため宇喜多家重臣らが秀吉を討ち取るため沼城中に待機 

勘づいた秀吉は、沼城に立ち寄らず宇喜多家勢力圏外に出るため一気に脱出 

これが中国大返しの真相である、とかないとか沼城の縄張り 

湿地帯に浮かぶ島ような見事な平山城 

飛地であった西の丸跡は現在浮田小学校となっている 

謀略家の直家が健在だったなら秀吉も本当に危なかったかも 

宇喜多家の秀吉暗殺未遂の可能性は低いにしろ、秀吉は追い討ちを警戒して一刻も早く姫路に戻ろうとしたのは間違いないと思う\いま、ココ!/ 

 

本日7/16は、西暦で442年前、清洲会議が開催された日! 

今回のシリーズ【逆⇔中国大返し】も 残すところあと1区間 

中国大返しの真相に迫ってみて新たに浮上した宇喜多家の存在 いよいよクライマックス 乞うご期待宇喜多家臣団 

秀吉の中国攻めでは直家の弟、忠家が宇喜多家の総大将となり秀吉に協力

忠家は戦上手で小早川隆景を撃退する等大いに貢献している 

宇喜多三家老の岡利勝、長船貞親は、年齢不明だが、三家老のもう1人戸川秀安と同じ世代かと思われる 

ちなみに秀家はこの時10歳蘇轍 

忠家の活躍もあり当主の秀家は豊臣政権下で一門衆に昇格 

さらに五大老まで取り立てられた 

秀吉が中国攻めで宇喜多家の貢献をいかに大事にしていたか窺える 

だが、紆余曲折あり秀家は八丈島で生涯を終えた 

八丈島にある秀家の菩提寺には蘇轍が植えられておりその縁で現在沼城跡にも植えられているここにもあった秀家の墓 

ちなみに以前、前田家下屋敷を紹介した時に登場した板橋区にある東光寺 

境内には明治時代になってから宇喜多家の子孫が供養のために建立したという『秀家の墓』がある  

数奇な運命にあった宇喜多秀家 改めて深掘りしたいし、八丈島にも行ってみたい だが、それはまた別の話

 

姫路⇒岡山

 

70kmの距離を新幹線でたった20分程度で移動 

秀吉たちが生きた時代から考えると言葉にならない 

探索2日目はレンタカーでの移動がメイン 

あいにく岡山駅付近はずいぶん前から予約が埋まっていて、赤穂線に乗り替えてレンタカーを借りに隣町の瀬戸内市へ

 

大多羅駅 

レンタカーを借りに通過した大多羅駅は、 空気階段の水川かたまりさんの生家がある最寄り駅
無人駅で特に何もなかった 

おおだら、、!?ダイダラ、、、
だから、 よく昔話で登場する「ダイダラボッチ」の伝承があるところかと思い調べてみた
特に何もなかった
だから、このまま通過して終了

 

レンタカーで姫路-岡山間の中間地点を目指して再スタート

 

船坂峠 

軍記物語『太平記』にも「山陽道第一の難処」と記されている峠 当時は、谷が深く、道が狭く滑り易かった様子 

さらには梅雨の時期だったので、姫路城への帰還は暴風雨で道筋の河川は相次いで増水していたとか

 

 

この時、秀吉は氾濫した川近くの農民を雇い、人の鎖を作って、その肩をツタって兵たちに川を渡らせた逸話があるらしい 

ルートたどるとおそらく「吉井川」が一番大きいのでこの川を指すのだと思う

山陽道新幹線が渡河する付近は大き過ぎるため、山陽自動車道あたりを渡ったと個人的には推察

 

 

ただ、後世、中には1日で2万人全員が姫路に到着した訳でなく、翌日以降も兵が姫路に到着もあったはずといった声もある 

 

そもそも計算すると、 2万人を縦一列、4m 間隔で並ぶ条件で列を作ったら80kmの列ができる 

つまり、秀吉が姫路にゴールした時点で最後尾の兵はまだスタートすらしていないことになる

 

 

三石宿

船坂峠に最も近く、 播磨国(兵庫)と備前国(岡山)の国境に位置する関所であり、街道筋にあったかつての宿場町 

山あいにあり、見渡すと鉱山や採石場らしき跡が視界に入った 蝋石の採掘や日本随一の耐火煉瓦生産地だったらしく、戦前には60近くの鉱山があったとか

 

 

三石駅 

1日平均乗車人数がこの10年200人も満たない無人駅 

隣の上郡駅との駅間距離12.8kmは、JR西日本管内の在来線で2024年7月時点で最もに長い駅間距離だとか 

とすると、この区間は中国大返しの時も今の時代も休憩ポイントが設置しにくい区間なのかもしれない

 

 

三石城 

 

船坂峠へ向かう途中、偶然発見 

1333年、南朝方に与した地頭の伊東宣祐が山陽道をふさぐ目的で築いた山城 

室町時代には備前守護代の浦上氏が居城していたが、浦上氏の衰退に伴い、やがて廃城 中国大返しの際は機能を失っていたと思われるが、現在も大手曲輪の石垣をはじめ遺構が現存していた

 

 

2日目くもり☁️

後半いよいよ開始 

 

姫路城 

 

秀吉の中国攻め以前は姫山城といい、黒田官兵衛の居城だった 

 

1577年の秀吉の播磨着陣の際、官兵衛より秀吉に献上し、秀吉の拠点となった 

中国大返しの際、浅野長政を留守居役として毛利家の追い討ちに備えていたらしい

 

江戸時代に入るとかつて尼崎城主だった池田輝政が紆余曲折を経て入城 

現在ある現存天守の通り大規模な城郭へと拡張 

今や世界遺産 そして訪城するときはなぜかいつも曇り

 

 

秀吉は播磨と摂津国境付近に岩屋砦を普請するよう指示した記録もあるとか 

光秀が摂津も越えて攻めてくることを警戒しての対策だったらしい 

 

 

「岩屋」というと淡路島にある城かと思ったら加東市にもあった 

たしかに地図を見ると山陽道からだけでなく福知山城から光秀の別動隊が攻めてきてもおかしくない

 


本拠地姫路城に到着した秀吉軍は、6/9朝まで滞留 

休養にあてた一日、秀吉は城内に備蓄していた金銭・米穀の数量を身分に応じて配下の将兵に悉く分与したとか 

これで籠城の選択はないということはわかるが、かといってこの時点で背水の陣の覚悟かは疑問が湧いた

 

 

というのは、中国大返しをしながら同時に山陰、山陽どちらでも海へ逃げるためのルートを作っていたようにみえるからだ 

 

山陽は、前述の通り淡路は再平定、山陰は鳥取は平定済でいざとなれば海へ逃げられる上で、光秀との対決を姫路で決定したように思う

 

ちなみに丹後の大名、細川藤孝は本能寺の変翌日、「信長の喪に服す」と称して剃髪し、光秀方に与することをさっさと拒否 

 

中立を保ってはいたが、姫路に到着する前から秀吉と連絡は取っていたとか 

とすると、秀吉方は藤孝の居る丹後田辺城経由で日本海を渡り北陸へ脱出するルートも考えていたかも

 

 

写真の通り、秀吉は緊急時用の海上ルートが多数あるのに対して光秀は全くない 

このあたりふたりが全く違った価値観で戦略を立てていた一例としてみることができて面白い 

秀吉と光秀の年齢差をみると10才以上も離れている 

そういう意味では、世代交代の戦いとしてもさらにみることもできるかとも思う

 

兵庫県 

まねきのえきそば

 

JR姫路駅構内にある立ち食いそば屋 

天ぷらそばの麺は、『蕎麦』ではなく、カンスイを使用した中華そば(ラーメン)用の麺 

つゆは蕎麦用の出汁、天ぷらは具のないサクサク感ゼロの揚げ玉の集合体 

天ぷらそばの姿をしたハイブリッドな逸品

 

 

姫路駅前付近にあった郵便ポスト 

 

サイドには歴代城主八家の家紋が掲載 

井伊家を除く徳川四天王の子孫が江戸時代に城主になっていたことに気づく 

そう言えば彦根城ふきんにはたしか天守が郵便ポストの上に乗っかっているモノを見たことを思い出した

明石⇒ 的形 


中国大返しが1日30kmというなら庶民の徒歩レベルでも難しくない 

が、甲冑や武器を携帯するなら話しは別 で、海運を利用して武具等運んだらしい 


その搬入口がこの的形(姫路) 

継いで兵庫津→武庫泊(尼崎)→最後は陸路と水路で高槻に搬出 見事なロジスティック的形駅17:55到着 


逆⇔中国大返しを決行したのは、2023/10/7 

辺りはもう真っ暗 対して、秀吉たちが中国大返しで的形を経由したときは西暦だと7/1頃 

日は長かったかもしれないが梅雨の時期で雨天だった記録もあったりなかったり湊神社秋季例大祭 


毎年10/13,14の2日間にわたって行われる江戸時代から続くお祭りで現地に訪れた時がその1週間前だったのかも 

どうやら準備をしていた様子 

児島、地、北山河、南山河、福泊、仮屋、大鳥の各町内の屋台7台が的形駅周辺を練り歩くそう




的形→姫路 1日目宿泊先の姫路へ


19:00到着 

駅前から観るライトアップされた姫路城を撮りまくる

姫路城と線路挟んで南口のホテルで宿泊 

書写山にも行ってみたかったがスケジュールが合わず今回は断念


\いま、ココ!/ 

本日6/21は、西暦で442年前、本能寺の変が起きた日! 

今回のシリーズ【逆⇔中国大返し】も100km地点を越え、中間地点に突入 少しずつ秀吉に感情移入できるようになってきた 

これからいよいよ中国大返しの真相に迫っていけるか、いけないか 乞うご期待

 

兵庫⇒明石 


電車では、約20分、徒歩5h強、約20km弱の距離 以前紹介した家康の伊賀越え、光秀の本能寺の変の行軍は1里(4km)単位で進んでいるのに対して、秀吉軍は約5倍以上の速さで進んでいる 

実際に通ってみると、直線のひら道なのでこのルートはかなり歩きやすかった明石城 


古来より交通の要衝であったものの、この城は、中国大返しの時はまだ存在せず 

江戸時代に入ってから徳川幕府が姫路城に次ぐ西国の外様大名の抑えの城として築城した 

現在はJR明石駅北側に位置し、駅ホームからも望める 

縄張りは連郭梯郭混合式の平山城で、日本100名城」にも選定されている枝吉城 


明石城から北西に約3km先にあり、秀吉たちはここで宿営したらしい 

当時、この地域を治めていた明石氏の本城で、明石氏は三木合戦から秀吉に与していたそう 

1585年からは高山右近が明石に入り、枝吉城を廃城して船上城の築城し、拠点を移した 住宅地の一画にあるので探すのに少し苦労した洲本城攻め 


秀吉は、別働隊を組織して明石海峡より淡路島東岸に進軍 

水軍からの襲撃を警戒し、明智方に与した淡路の国衆、菅達長が居る洲本城を攻撃 

秀吉が明石に到着する前、6/9のうちに同じく淡路の国衆、廣田蔵之丞らと連携して洲本城を落城させていたちなみに菅達長は、光秀に与する前は毛利方として岩屋城の城主だったそう 

しかし、本能寺の変の前年に秀吉らの淡路侵攻の際、落城させられている 

その後、生き永らえて今度は秀吉の家臣、仙石秀久が城主だった洲本城を奪取 

が、前述の通り廣田蔵之丞らの攻城でまたすぐ落城 で、仙石秀久はいかに?

栖賢寺 


秀吉が亡君の弔い合戦に臨む決意を示すため、尼崎にある栖賢寺で自身の髻を切った逸話が有名 

これで大義名分を民衆に知らしめることができた 

摂津衆と合流する前に準備万全 

栖賢寺は尼崎城から西へ800m先にあり、現在は廃寺 

境内跡は別のいくつかお寺が建立されていた


尼崎駅から阪神線に乗車、神戸三ノ宮でJR神戸線に乗り換え兵庫駅



兵庫城跡 


荒木村重が信長に謀反を起こし、その征伐をした池田恒興が村重の後釜として摂津国の領主として入封 村重が居た花隈城には入城せず、1581年に兵庫津に築城 

当時は天守もあったとか 

秀吉は6/10夜にここ兵庫で充分に休息し、翌6月11日朝に出発したらしい

ここでの中国大返しに関する情報は宿泊したことしかわからなかった  

池田恒興の統治下なので、宿泊地として提供した=恒興はこの時点で秀吉側に付くと決めていたと考えられる 

というか、秀吉は恒興が味方になるのはともかくとして『光秀側に付くことはない』という確証は何年も前から持っていたのかもちなみに現地にあった案内板によると、兵庫城跡地は明治時代に兵庫県庁を建立 

その兵庫県庁に伊藤博文が初代内閣総理大臣になる以前、初代知事として1年間赴任したらしい 

今は住宅やショッピングモールが立ち並び 跡形もないが、他にも平清盛が遷都とした福原京もあったりと史跡として色々と凄いところ

米澤穂信著 黒牢城 


本能寺の変から4年前 

荒木村重を取り巻く有岡城内で起こった事件をテーマにしたミステリー小説 

秀吉や光秀とはどう関わりがあったのかとか村重の人となりについては、今回とは別にいつか掘り下げて調べてみたいと思っている

 

高槻城(富田) ⇒尼崎城 


電車の場合、梅田経由で約1時間、30km強 

実際には秀吉が野営した富田は茨木城と高槻城のほぼ中間地点で徒歩の場合、淀川を渡河せず約23km 

このルートを1日かけ、秀吉は信長の弔い合戦を「宣伝」 

摂津の武将を味方に引き入れる"情報戦"をしていたそう尼崎城 


本能寺の変が起きた当時、城主は池田輝政 

だが、秀吉が尼崎へ着陣した時、織田家古参の父である恒興はまだ有岡城に在城 

丹羽長秀、神戸信孝らもここでの面会はなかったとか 

恒興らが秀吉と合流した場所は、「高槻」で、高山右近、中川清秀ら摂津衆と揃って、軍議に参加したらしいちなみに恒興は、尼崎に到着した秀吉と合流した説もあり 

さらには、この時、秀吉の甥、秀次を恒興の婿に、輝政を秀吉の養子にと約束した逸話も 

そんな恒興は後に家康との小牧長久手の戦いで戦死 息子の輝政は親の仇家康の娘を後妻に娶り、初代姫路藩主になっている 

物事には拘らない性格だったらしい池田恒興の肖像画 


48才没 信長より2学年下、秀吉より1学年上 なのにずいぶんおじいちゃんに見える 

信長と乳兄弟だった話は有名だが、滝川一益の父方の従弟だったとつい最近知って驚いた\いま、ココ!/


奇しくも本日6/12 

秀吉軍らが尼崎→高槻へ向かった7日目だった(旧暦だけれども) 

前シリーズの【逆⇔本能寺の変】で光秀に染まり過ぎて、どうも秀吉に感情移入がうまくいかずイマイチ 

いやいや、まだ始まったばかりさ栖賢寺 


秀吉が亡君の弔い合戦に臨む決意を示すため、尼崎にある栖賢寺で自身の髻を切った逸話が有名 

これで大義名分を民衆に知らしめることができた 

摂津衆と合流する前に準備万全 栖賢寺は尼崎城から西へ800m先にあり、現在は廃寺 境内跡は別のいくつかお寺が建立されていたちなみに秀吉一行が尼崎へ到着したのは、6/11の夕刻であったらしい 

髻を切ったのは、その日のうちか、6/12の翌朝か、どっちだろう? 

宣伝プロモーションする上で公開する時間もまた重要 

合戦前の宣伝のうまさで言えば、とある国のかつての軍隊のことを思い出した一方、光秀は近江方面の攻略が一段落した9日、勅使下向の返礼と称して安土より上洛 

光秀入京の際、公家や町衆が群がって出迎えたとか 光秀は吉田兼見を通じて朝廷に500枚、京都五山・大徳寺等を含むと700枚の銀子を献上し、さらに地子銭免除の特典を発行 

前哨戦での秀吉vs光秀もいろいろあった