老ノ坂峠⇒王子神社
およそ2kmのルートを車で約4分(徒歩30分程度) 峠を下っていくと景色は一変
田畑が広がり、京都市内から別次元にやって来たようで国境を越えたことを体感する
本能寺跡を出発してからおよそ2時間経過
この遠征の2日目、ここで正午の時刻を迎えた
王子神社
現地の案内板によると、 熊野信仰に基づく、熊野若一皇子を祭神に勧請したこの王子神社は、峠神として親しまれ、また鳥居の下から湧き出る清水は枯れることなく、旅人の喉を潤したと、あった この周辺から峠にあった異様さはなく、峠神のご加護と伝えられているのもよくわかる
ここまで2時間経過し5つの要所を通過
区間の平均移動距離は1里(約4km)を未満
定かではないが平均移動距離2里はあった「神君伊賀越え」に比べ明らかに前進が遅い
光秀は軍隊を率いていたしこれから討ち入りで体力温存も加味すれば遅いのは当然
ただ実際に辿ってみると彼らの足取りに何か重さも感じたりもした 王子神社 ⇒篠村八幡宮
およそ1.2kmのルートを車で約4分(徒歩20分程度)
桂川に夜明けの4時半頃に到着したと仮定して逆算すると、篠村八幡宮から京都へ出立したのは日が変わった午前0時頃と考えられる
前述の明智軍記で紹介した3手説もここで分かれて進軍したとされている 篠村八幡宮
かつて「明智の社」と呼ばれていた境内 光秀は軍議を開き、ここで初めて重臣たちに本能寺討ち入りを打ち明けたとされる
滞在時間はおそらく4,5時間程度
ここでの作戦会議のみで本能寺の変事態は成功させていることから光秀の指示がいかに的確で、重臣たちが有能だったことかがわかる
気になるのは、この境内に13,000人も駐屯できるスペースがあったのか さすがにここで4,5時間も待機させたら兵士たちも不審に思うだろうし、段取りも 悪い あくまで推察だが、先に重臣たちのみここに集合して軍議を開き、軍隊は亀山城から後発してここで再合流した方がしっくりくる 旗立楊
この境内には「旗立楊」と呼ばれる決起の目印として足利の家紋と源氏の「白旗」を掲げた楊の木がある 足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻し旗揚げした場所だ
尊氏の威光にあやかり、光秀は重臣たちを信長討伐の説得するための材料として、また戦勝祈願するためすでに以前からここを選んでいたのかも
現地を見学した当日は、 亀岡市内の小学生たちの子ども相撲大会と全日本女子相撲選手権大会が境内にて開催
また京都の伝統的な神事で、赤ちゃんが神様を相手に相撲を取るという「赤ちゃん土俵入り」も 赤ちゃんの泣き声から歓声、笑い声とずっと賑やかだった
篠村八幡宮⇒野橋立跡
およそ2.7kmのルートを車で約8分(徒歩40分弱程度) いよいよ亀山城下へ
古民家や酒蔵等が見えてくる
直進だった旧山陰街道が曲がりくねった所も見えてきた
ヨーロッパの旧市街を連想する
光秀はお殿様というよりヨーロッパの領主に近いかもとふと思った
野橋立跡
年谷川に架かった現在は小さな橋
この川は、京都市側から攻めてきた敵から守る亀山城天然の要害 現地の案内板によるとかつて千本松と呼ばれるほどの松並木があり一説には光秀はここに防衛線として植えたとあった
写真の通り現在は変わりコスモスが植えられていた 野橋立⇒亀山城
およそ1.1kmのルートを車で約4分(徒歩15分程度) 城下町に入り 府道402号線が府道25号線と交差する十字路を右折
今度は、旅籠町交差点で左折し、柳通りを進むと右手に亀岡高校 さらに府道402号線沿いに右手進み亀山城南口に到着し、ゴール(9月17日12時40分) 丹波亀山城
亀山城なのか亀岡城なのか
いったいどっちなのか調べながらずっとモヤモヤしてたが、その答えが現地の案内板にあり
亀山という地名を1869年に亀岡へ改名したそう
ちなみに現在、縄張りの大部分は入場できないが、北側の搦手は「南郷公園」と呼ばれ、外堀は池になっている 天守について
本能寺の変から4年前、1578年に光秀によって築城 3重の天守が構えられ、日本初の層塔型天守説もあるとかないとか
着工からわずか1年で竣工したらしい 現在は、宗教施設になっているため一般公開はされていないとのこと
明智光秀公像
現地の案内板には、ふるさと納税で寄付を募り、2020年の大河ドラマ"麒麟がくる"放映を記念して2019年(令和元年5月3日)建立したとあった
銅像はもっと前からあったような気もするし、麒麟がくる放映から今年でもう4年も経ったのかと追想