城新聞

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-Japanese castle press-
Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.



機会損失に焦った光秀 

このように協力者のうち、村重が謀反を起こした時点で光秀はこのクーデターを諦めるべきだった 

だが、機会損失に焦ってしまった結果、単独で本能寺の変を起こしてしまったこの時の明智家、織田家たちの家臣たちの平均年齢 

神君伊賀越えをした徳川家臣たちの平均年齢は34歳で明智家より5歳も若い 

光秀が焦るのもわかる気がする 

さらには秀吉と官兵衛に、信長追放ではなく、謀反人光秀を討つという計画にすり替えられ、中国大返しを利用されたことは、大誤算だった

「京都クーデター計画」は、織田家へ転職したばかりの頃、光秀は、冗談混じりで同僚にけっこう話していたかもしれない

 それは、経営者・信長の耳にも入っていたものの、信長自身まさか討たれるとは思っていなかったと思う 

そう考えると「是非に及ばす」と信長が最後に発した言葉がこれまたしっくり来る

黒幕は誰だ 

1568年、本圀寺の変において、まず荒木村重と細川幽斎は光秀と同じく将軍足利義昭を守った誼があった 

特に村重は摂津、幽斎は、丹後と京都の隣国領主と協力者として、かなり早い段階でこの京都クーデターを呼びかけた可能性が高い

一方、秀吉と家康は、接点が少ないが、ともに命懸けで殿を務めた1571年の金ヶ崎の戦いの際、光秀から「10年後にでもやろう」と持ちかけた可能性がある 

元親に関しては、織田家の渉外担当として接点があったので、同様に持ちかけた可能性がある 

では、次にその5人についてそれぞれ個別に迫ってみよう

     画像

村重の挫折 

光秀が持ちかけたクーデター計画より遠征や領国経営で、皆それどころではなかった 

だが、信玄が亡くなり長篠の戦いで勝利した頃からこの計画が再燃 

各自戦果をあげていく中、村重は本願寺攻めが上手くいかず、結局、信長へ謀反を起こす 

これで光秀のこの計画は変更が余儀なくされることに乗り気だった秀吉 

毛利攻めが決まった時点でこのクーデターがいつでも起こせるよう、秀吉は黒田官兵衛と熱心に計画 

だから中国大返しも短期間でできたし、毛利との和睦も成功した ただ、村重の謀反は想定外で、官兵衛を説得に行かせた際、逆に捕虜にされてしまっている動揺の家康 

家康もこのクーデターは事前に知っていたものの、家臣には特に話さず失敗するだろうと高を括っていたと思う 

だから本能寺の変が起きたことに一番動揺したかもしれない 

因みに武田家滅亡後、信長は、家康に駿河一国を与えていたとのこと 

穴山梅雪は家康家臣団として堺へ同行していたようだ   

四国統一を先んじた元親 

光秀に協力する姿勢を見せながらも畿内へ軍隊を割くより四国統一させることを最優先にしていた 

むしろ十河存保ら四国内にまだ敵も多かったので、畿内へ兵を出す状態ではなかったと言った方が妥当かもしれない最後まで潔癖だった幽斎 

一方、一番冷静に動向を見ていたのが幽斎 

摂津守護の村重が謀反を起こした時点で与力だった高山右近や和田惟政ら光秀に味方に付かないと見ていた 

また、本能寺の変が起きてからすぐ剃髪して、味方に付かない意思表示したことから初めからこの計画に反対していたのかもしれない

京都クーデター計画」説 

では、ここからは、独自の完全なる妄想なのであしからず 

当初の考えでは、毛利攻めで信長が進軍している間に京都を「占拠」するつもりだった光秀 

信長を討つことが目的ではなく、まずは京都でクーデターを起こし成功させることが目的だった画像

だが、賛同を呼びかけた「協力者」たちが次々と噛み合わず、結果、単独で動かざるを得なくなり、さらには本能寺で信長を討つ目的に変わることとなってしまった 

「協力者」とは、主に羽柴秀吉、徳川家康、荒木村重、長宗我部元親、細川幽斎の計5名

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この面子で連携して、中国地方へ進軍中の信長軍に対して、第3次信長包囲網をかけるつもりだった光秀 

また、1573年、槇島城の戦いで信長が義昭にしたように、光秀もまた信長を生捕りにしてするつもりだった、かも

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「本能寺の変」真犯人 諸説も多々あり、事実は今となってはわからない 

だが、今回本能寺から亀山城を道のりを辿ってみて、個人的な考えではあるが、やはり明智光秀自身が企てたことに違いないと思っている 

その理由と独自の考察としてこれから改めて紹介したい

きっかけは本圀寺 

 

光秀は三好三人衆から本圀寺で将軍足利義昭を寡兵で守った 

この経験で自信を付け、京都での市街地戦、クーデターの起こし方を学んだ 

光秀にとって人生の転機は"信長との出会い"と捉えるのではなく、この"本圀寺での経験"こそが人生の転機と捉えるとまた違った展開が見えてくる

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要するに信長であれ義昭であれ関係なく、時が来ればクーデターを起こそうと、本圀寺の変から12年に渡り、構想を描いていたのだ 

その上で、信長に取り入り、坂本城、亀山城、福知山城と京都近辺で立派な軍事基地を作っていたとも考えるとしっくりくる

因みに「私怨説」もよく挙がる 

だが、信長個人へ怨みがなかった訳でないと思うが長い浪人生活を経験した光秀が短絡的な理由で周りも巻き込んでこんなことをする人物にはどうも思えない 

ただ「山陰へ転封」を信長から命じられた時、「京都クーデター計画」は破綻してしまうため事を急いだことはあり得る

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1日目⇒愛宕山登山 

2日目半日⇒ 本能寺の変ルート 

 

辿ってみてまずは光秀に対して率直な感想 

 

①行動的

② 一方で慎重 

③観念的 

④一方で現実的 

 

世間的評価とほぼ同じだが、これって石田三成に似てるなと文字化して気づいた 光秀の上司が秀吉だったらお互い上手くいったのかも

画像時は今 あめが下知る 五月哉 

 

光秀が本能寺の変前に愛宕神社で詠んだ有名な謳 

これは天下獲りを示唆していたとよく取り沙汰になる 

真相はともかく、仮に示唆していたなら本能寺の変は6月2日だからリスケされている 

本来は5月中に起こす計画だったのかも 真面目で几帳面な光秀 きっと不服だったはずだ敵は本能寺にあり 

亀山城⇒本能寺 約20kmの道のり 

計画的に慎重に進軍したと思う 

その慎重さから3手に分かれ桂川で合流し本能寺を攻めた説に賛成 

ただ、進軍にあたり、口封じのため農民を斬り殺した説に関しては光秀本隊ではなく、別働隊が山道を進軍する際、山賊を討伐したことを指すのではと思った

それからの光秀 

信長を討った後、さらに嫡男信忠も二条城で討ち、14時に終結 城内に兵士が500人居た説もあり、これは二条城近くで起こった本圀寺の変で光秀らが籠城し、三好三人衆から足利義昭を守った数に一致する だからこそ反対に攻城のポイントも熟知していたのかもだが、これで天下人となるには至らなかった

 信長、信忠の首級を上げられずに本能寺の変が終わってしまった失態を犯している

 これは本圀寺の変で大将首を獲られた経験をしていなかったことも起因しているのかも これが仇となったのか、結局秀吉との山崎の戦いで、味方を集められず敗れ、逃走中に討死
 

老ノ坂峠⇒王子神社 

 

およそ2kmのルートを車で約4分(徒歩30分程度) 峠を下っていくと景色は一変 

田畑が広がり、京都市内から別次元にやって来たようで国境を越えたことを体感する 

本能寺跡を出発してからおよそ2時間経過 

この遠征の2日目、ここで正午の時刻を迎えた

王子神社 

 

現地の案内板によると、 熊野信仰に基づく、熊野若一皇子を祭神に勧請したこの王子神社は、峠神として親しまれ、また鳥居の下から湧き出る清水は枯れることなく、旅人の喉を潤したと、あった この周辺から峠にあった異様さはなく、峠神のご加護と伝えられているのもよくわかる

 

ここまで2時間経過し5つの要所を通過 

区間の平均移動距離は1里(約4km)を未満 

定かではないが平均移動距離2里はあった「神君伊賀越え」に比べ明らかに前進が遅い

 光秀は軍隊を率いていたしこれから討ち入りで体力温存も加味すれば遅いのは当然 

ただ実際に辿ってみると彼らの足取りに何か重さも感じたりもした王子神社 ⇒篠村八幡宮 

 

およそ1.2kmのルートを車で約4分(徒歩20分程度) 

桂川に夜明けの4時半頃に到着したと仮定して逆算すると、篠村八幡宮から京都へ出立したのは日が変わった午前0時頃と考えられる 

前述の明智軍記で紹介した3手説もここで分かれて進軍したとされている篠村八幡宮

 かつて「明智の社」と呼ばれていた境内 光秀は軍議を開き、ここで初めて重臣たちに本能寺討ち入りを打ち明けたとされる
滞在時間はおそらく4,5時間程度

 ここでの作戦会議のみで本能寺の変事態は成功させていることから光秀の指示がいかに的確で、重臣たちが有能だったことかがわかる

気になるのは、この境内に13,000人も駐屯できるスペースがあったのかさすがにここで4,5時間も待機させたら兵士たちも不審に思うだろうし、段取りも 悪い あくまで推察だが、先に重臣たちのみここに集合して軍議を開き、軍隊は亀山城から後発してここで再合流した方がしっくりくる旗立楊 

 

この境内には「旗立楊」と呼ばれる決起の目印として足利の家紋と源氏の「白旗」を掲げた楊の木がある 足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻し旗揚げした場所だ 

尊氏の威光にあやかり、光秀は重臣たちを信長討伐の説得するための材料として、また戦勝祈願するためすでに以前からここを選んでいたのかも

現地を見学した当日は、 亀岡市内の小学生たちの子ども相撲大会と全日本女子相撲選手権大会が境内にて開催 

また京都の伝統的な神事で、赤ちゃんが神様を相手に相撲を取るという「赤ちゃん土俵入り」も 赤ちゃんの泣き声から歓声、笑い声とずっと賑やかだった

 篠村八幡宮⇒野橋立跡

 

 およそ2.7kmのルートを車で約8分(徒歩40分弱程度) いよいよ亀山城下へ 

古民家や酒蔵等が見えてくる

 直進だった旧山陰街道が曲がりくねった所も見えてきた 

ヨーロッパの旧市街を連想する 

光秀はお殿様というよりヨーロッパの領主に近いかもとふと思った

野橋立跡 

年谷川に架かった現在は小さな橋

 この川は、京都市側から攻めてきた敵から守る亀山城天然の要害 現地の案内板によるとかつて千本松と呼ばれるほどの松並木があり一説には光秀はここに防衛線として植えたとあった 

写真の通り現在は変わりコスモスが植えられていた野橋立⇒亀山城 

 

およそ1.1kmのルートを車で約4分(徒歩15分程度) 城下町に入り 府道402号線が府道25号線と交差する十字路を右折 

今度は、旅籠町交差点で左折し、柳通りを進むと右手に亀岡高校 さらに府道402号線沿いに右手進み亀山城南口に到着し、ゴール(9月17日12時40分)丹波亀山城 

 

亀山城なのか亀岡城なのか

 いったいどっちなのか調べながらずっとモヤモヤしてたが、その答えが現地の案内板にあり
亀山という地名を1869年に亀岡へ改名したそう 

ちなみに現在、縄張りの大部分は入場できないが、北側の搦手は「南郷公園」と呼ばれ、外堀は池になっている天守について 

 

本能寺の変から4年前、1578年に光秀によって築城 3重の天守が構えられ、日本初の層塔型天守説もあるとかないとか

 着工からわずか1年で竣工したらしい 現在は、宗教施設になっているため一般公開はされていないとのこと

明智光秀公像 

 

現地の案内板には、ふるさと納税で寄付を募り、2020年の大河ドラマ"麒麟がくる"放映を記念して2019年(令和元年5月3日)建立したとあった

 銅像はもっと前からあったような気もするし、麒麟がくる放映から今年でもう4年も経ったのかと追想

 

 

 

本能寺跡⇒桂大橋 

 

前置きにずいぶん費やしてしまったが 改めて本能寺跡からスタート 

およそ6kmのルートを車で16分 

京都駅直前で右折し、東海道新幹線を左手に行く道は街の中心部にも関わらず意外にもフツーの住宅街 

 

観光では観たことのない光景に触れてテンション上がった

桂大橋 

 

この河畔で光秀が部下たちに信長打倒の意思を示し、「敵は本能寺にあり」の号令を発したされる場所 

前述の「本圀寺の変」でも最後はここで幕府軍として光秀も勝鬨を上げている 

といった縁から光秀がここで号令してもおかしくはない 

 

ちなみに桂川の上流は、1日目に行った渡月橋のある嵐山

この桂川辺りで夜明けを迎えた明智軍 

6月の日の出時刻が4時30分頃なので、その前後かと思われる 

先鋒の斎藤利三は、ここから幟や旗指物を付けず各諸隊で分進して、本能寺へ急ぐよう下知したそう 

 

現在は、河川敷と野球のグラウンドもあり、のどかな景色桂大橋⇒樫原(かたぎはら)宿 

 

桂大橋を渡り、およそ3kmのルートを車で12分(徒歩の場合、約1時間弱) 

阪急京都線桂駅南側の踏切を渡り、さらに進むと徐々に街並みは変わっていき、山陰街道へ 樫原宿は京都三条大橋を出て山陰街道で最初の宿場町で、交通の要所でもあったそう

樫原宿 

 

江戸時代に入るとここに陣屋も設置され、参勤交代で往来した諸大名が宿舎としたそう 

本陣跡がある旧山陰街道のこの辺りは、現在も宿場町の面影を残し、界わいは景観整備地区に指定されている

旧来から交通の要所であり、狭い道だが現在もバスの通路にもなっている 

夜明け前、13,000人もの明智軍が家の前を通過されたここの住人たちは何を思ったのだろう 

戦国時代の生々しさを感じた

樫原宿⇒金輪寺(沓掛) 

 

およそ3kmのルートを車で約10分 (徒歩1時間弱) 

山陰街道を進んでいくと徐々に丘陵地の中腹から高台を横切るような道となり、左手は見晴らしの良い景色が見えてきた 

沓掛は京への道と西国への道の分岐点で 明智軍は、ここで休憩して夜食を摂ったそう『川角太閤記』には、信長討ち入りの情報が漏れないように、光秀は家臣に命じて、外に居たこの付近の農民を斬り殺した記されているとか 

ちなみに沓掛を通ったルート以外にも諸説あるので、別働隊がいくつか分かれて 進軍した可能性もあるとかないとか

本能寺の変の「ルート」について記されている主な文献は、信長公記、川角太閤記、豊鑑、明智軍記の4冊 

 

このうち、明智光秀を主人公とした明智軍記では、3手に別れて桂川で合流した推測されている 

本隊は山陰街道の❶老ノ坂越え 松尾山経由で

別働隊2部隊は、❷唐櫃越 愛宕山(水尾→保津峡)経由❸明智越え

国際日本文化研究センター 

 

人間文化研究機構を構成する大学共同利用機関 

ここにあの歴史学者の磯田道史先生が所属している 

勝手に京都御所の付近にあると思っていたがこんなところにあったとは! 

西京区は今回初めての遠征だったが知らない京都が見ることができて本当に良かった金輪寺(沓掛)⇒老ノ坂峠 

 

4kmのルートを車で約9分(徒歩1時間強) 金輪寺を出てすぐのY字路で左は中国方面に繋がる西国街道の山崎、

右は亀岡という分岐点に差し掛かる 老ノ坂は、かつて大江坂(おおえのさか)から変化して、現在この表記になったらしく古文書も大江坂表記が多い


明智軍はおそらく老ノ坂峠を経由したと思われるが、現在は峠の下に2つのトンネルが通っている 

 

車道用→「松風洞」

歩行者、自転車専用道→「和風洞」 

 

この辺りはかつて盗賊の住処として知られていたそうで、鬼の頭領とされる酒呑童子の首塚もあった 真昼でも不気味で独特な雰囲気

「和風洞」の亀岡口に出ると、トンネルの入り口に道○坂と書いてあった

○にツタがかかっていて見えない

前述で『川角太閤記』に、光秀は家臣に命じて、この付近の農民を斬り殺したとあると述べたが、実際には農民ではなく、この付近の山賊の事かと推察 

この物物しさからそう思えた

本能寺跡 

 

2日目スタート

宿泊先から西へ500mほど直進したところにある老人ホームが跡地 

外観は当時を偲ぶのような景色が一切なし 

『信長最期の地』とはいえ、 さすが1000年以上の歴史を持つ京の都

「過去は過去」と割り切っている、 というか、潔さすらあった

現・本能寺 

 

本能寺跡から北東約2km先のところに 現・本能寺がある 

境内には信長公廟があり、現地の案内板には、この墓所は三男信孝が信長没後から約1ヶ月後、7月3日に建立したと記されていた

本圀寺跡 

 

光秀にゆかりのある寺 

将軍・足利義昭が本拠地としていた時期があり、1566年、三好三人衆が義昭をここで襲撃したのが「本圀寺の変」 

この時、光秀は幕府軍として防戦した 

この京都での市街地戦の経験が13年後、今度は攻め手として「本能寺の変」を起こした要因だと個人的に強く思う

現在の京都市街地の地図で見た、本能寺跡と現・本能寺、本圀寺跡の位置 

 

位置がわかった上で、本能寺の変が登場する小説を再読するとさらに面白さが拡がるのが歴史小説のよいところ 

加えて後日談として著者が現地を直接取材していたことなど知ったら、自分勝手に伏線回収もできたような気持ちにもなる

北野武監督 映画 首 

 

「あなたこそ、あととりなのに」 

「なぁ?」

 

 11月23日公開初日、朝イチの上映で鑑賞 改めて本能寺の変に興味を持ったのは、この予告を観たのがはじまりだった

 

渡月橋 

 

下山してバスに乗車して嵐山駅へ到着 

渡月橋を見学 歴史は古く、836年に架橋したのが始まりで、秦氏にゆかりがあるとかないとか 

ちなみに鎌倉時代に亀山上皇が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べ「渡月橋」と命名されたそう

新八茶屋 

 

抹茶と柑橘系のダブルのジェラート 風雅な「渡月橋」を眺めながら味わうジェラートは風味舌下 


嵐電嵐山駅構内 

 

屋台が入ったようなテーマパークのような構内 

中ノ島を渡り、阪急嵐山駅へ 1日目の宿泊先へこれより移動

宿泊先の烏丸に到着 

 

途中、大丸で、夕食に551蓬莱で焼売とまつたけのちまきを購入 焼売もちまきも食べ物ながらアイデンティティがあって、ど真ん中というか、限定詞の「The」がくるようなパワフルさがあった 明日はいよいよ本番の本能寺の変ルートへ 

 

早めに就寝