そして津波はやってきた 2 | 白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 31年の軌跡

白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 31年の軌跡

私が過去に体験したことや、日々感じたこと等を綴っていきます。
37歳の時に前縦隔原発性腺外胚細胞腫瘍非セミノーマに罹患しました。ステージⅢB
胸骨正中切開手術による腫瘍全摘、シスプラチン他の多剤投与後、ミルクケアを5年間実践して30年経過しました。







仕事で沿岸に行けばやはりどうしても泊まり掛けになってしまいます。盛岡から宮古まで100キロくらいでなので、日帰りも可能なのですがやはり続きません。

仕事のタイミングで車中泊になることも多く、独自に安全な駐車場所を探しました。

※宮古市
浄土が浜パーキングは海抜30米くらいあって立派なトイレもあり、そしてこれが最も重要ですが、道はさらに高い所に通じています。


      宮古市浄土が浜パーキング


それはなぜかというと一応海抜30米あるとはいっても、三陸沖の震源地によっては30米以上の津波がくるかも知れないからです。事実明治29年の大津波は大船渡三陸町綾里では最大遡高38,2米を記録しています。







 綾里の津波最大遡高到達点の標識




    綾里駅・町で最も高い所にある


三陸沖の震源地の海底の形状によってはどれほどの巨大津波になるか誰にもわかりません。
宮古市浄土が浜パーキングの高さでも決して安心することはできないのです。

ですからさらに高い所に逃げられる環境でなければ決して泊まりませんでした。

                  津波の速さ


また震源の距離が近ければ津波到達時間もきわめて短く、避難が間に合わなくこともあります。やがてくる南海地震津波では地震から10分もたたないうちに巨大津波が来襲するといわれています。
今のままでは多数の人々が逃げ遅れてしまいます。

またサイレントアースクウェークといって震度はせいぜい3くらいなのに、巨大津波が襲うこともあります。

明治29年6月の地震では震度はせいぜい2~3だったので、人々はほとんど警戒しない間に大津波が襲ったのでした。
三陸沖ではこの種類の地震は100年前後の周期で発生するといわれています。


                      浄土が浜


私は浄土が浜パーキングに泊まる時は、どんなに小さな地震でも、また夜中でもさらに高い所に車を走らせました。車の向きも瞬時に出られるように道路に対して前向きにして、さらにエンジンをかけるとすぐにNHKラジオが聴けるようにしておきました。


                 浄土が浜周辺図

浄土が浜パーキングよりも、シートピアなあど(上の地図の下)の方がずっと便利なのですが、ここは海抜ZERO米で津波には無防備なので、車中泊には使えません。
しかしそれでもかなりの方が車中泊に使っていたようです。

 津波に飲まれたシートピアなあど
大震災当日たまたま休館日でおそらく多くの人が助かったのだと思います。

大震災以前にこの事を人に話すと必ず笑われました。それは仕方のない事です、何故なら人間は日常においては「正常性バイアス」に
支配されていて、決して「自分自身」を生きているとは限らないからです。

    浄土が浜遊覧船とウミネコの群れ


「正常性バイアス」は人間が日常の流れから逸脱しないように、できるだけ平穏無事を志向するように仕向けています。これは個人の生存よりも群れの存続を守るためのように見えます。

私には人間社会は当然そのように構成されているように見えるので、「私を生きたい」私には、過度の「正常性バイアス」に従うことはできないのですが、それが社会的な目からすれば「逸脱」ということになり、ときには軽い嘲笑の対象になるのでしょう。



私のガンの闘病も「正常性バイアス」から見れば、およそ支離滅裂のように見えたでしょう。

胸骨正中切開手術による悪性腫瘍全摘出に成功し、見える限りガン細胞の有無を確認して、もう完全に私の体の中にガン細胞はなくなりました。

だが大津波の襲来後、瓦礫の中から立ち上がり、平和をめざして新たに生きようとする人びとに、再び大津波襲来のカウントダウンは始まっています。

同じようにガン細胞が全摘出されて、漸く訪れた完全寛解の平和な体の中にも、「再発」という大津波が密かに潜在して、その時を狙っています。
再発のカウントダウンは既に始まっているのです。



今日の話は昨日の続き今日の続きはまた明日




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