そして津波はやってきた-1 | 白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 31年の軌跡

白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 31年の軌跡

私が過去に体験したことや、日々感じたこと等を綴っていきます。
37歳の時に前縦隔原発性腺外胚細胞腫瘍非セミノーマに罹患しました。ステージⅢB
胸骨正中切開手術による腫瘍全摘、シスプラチン他の多剤投与後、ミルクケアを5年間実践して30年経過しました。

私は次男坊だったので何かにつけて身が軽く、36年前にここ岩手県は滝沢市に移り住みました。


     早春の林床に咲くアズマイチゲ

理由は単純で私は蝶の採集が趣味だったので、種類数および個体数が並外れて多い岩手県は、子供の頃から憧れの地だったからです。盛岡の名は小学生のころからよく知っていました。


カタクリに吸蜜する春の女神ヒメギフチョウ

さらにもうひとつの理由は夏の気候が冷涼で、当時既に温暖化の兆候が感じられた横浜が、子供のころよりも異様に暑苦しく感じるようになっていたからです。



              横浜開港資料館

当時の岩手は「詩情豊かな岩手路」をキャッチフレーズにするほど自然の豊かな所でしたが、開発に次ぐ開発で大きく荒れてしまいました。
「詩情」といえば現在では隣県の秋田の方が美しく残っています。                                                          

  秋田県仙北市田沢湖町生保内

岩手はダイナミックな地形で、内陸のみならず陸中海岸も海のアルプスと呼ばれるほどの景観美を誇ります。

しかしそれは大きな津波が発生する原因でもありました。大体30年毎に大津波に襲われてきた歴史でした。



           岩手県田野畑村北山崎

こわいものとして昔から「地震-雷-火事-親爺」といいますが、三陸では親爺ではなく、やっぱり津波でしょう。


         葛飾北斎    神奈川沖浪裏

私は小学生のころから蝶と同じくらい津波に興味がありました。
岩手に移り住んでからは地震の度ごとに津波の心配をするようになりました。

これまでに何度か大きな地震がありましたが、陸上で被害の出るような津波は不思議なほどありませんでした。
ですから多くの人が大きな地震のあとに、
津波注意報や警報が出ても、「狼少年」と笑って逃げようとしない習慣がついてしまいました。


宮古市役所前の堤防を乗り越えた津波。堤防の内側はハゼやスズキがよく釣れ、川の真ん中にはどういうわけか私だけが釣れるヌマガレイのポイントがありました。




そこへあの大震災がやってきたのでした。
あの地震は岩手でもこれまでに無かったような揺れ方でした。私は滝沢の自宅の二階で揺られながら。
「ああ、沿岸はとうとうやられるな」と思いました。
もう既に携帯も繋がりにくくなっていて、この川の近くにすんでいる友人ともやっと繋がるような状態になっていました。友人は90歳の義母の手を取って高台に逃げる最中でした。
私も隣家の86歳になる老婦人の手を取って乗用車に保護していた最中でした。
もう岩手県は全域停電していて、カーラジオが情報源になっていました。

左の赤い看板は美味しいラーメン店でした。


地震があっても気象庁が「狼少年」といわれたほど津波がこなかったので、三陸の大津波も私たちの世代では「伝説」で終るのかと思っていたら、何と1000年に一度のとんでもない規模のものだと聞かされて正直、「私たちの世代は日本の転換点にいて日本に重責があるのかも知れない」と思いました。この子供のような感情の高揚は、やがてうらはらに私の髪を真っ白に変えたのでした。おそらく私の気づかぬ心のどこかに、この大震災は私にとてつもない
衝撃をもたらしたのでしょう。

精神的外傷ストレス症候群(PTSD)は本人の知り得ぬ心の深所に潜行する、あたかもガンのようなものかも知れません。
早期の的確な治療が必須です。

この完璧な白髪は半年ほどで元に戻りました。よく一夜にしてなんていいますがまったくそれに近い変化でした。ひょっとしたら中国の「白髪三千丈」も本当にあるのかも・・・。
     



     画面の奥に見える山は月山です。


来年の3月11日で5年の歳月が流れます。

     
                 小岩井農場の一本桜

敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花


今日の話は昨日の続き今日の続きはまた明日


白鳥碧のホームページ
ミルクケア