続 沖縄 南北大東島・古宇利島旅行 ( 北大東島観光➀ )の続きです。
11月29日 ( 月 ) 。
この日、前日の残りの場所を観光しました。
北大東島を観光するのは、1日もあれば十分だと聞いていたので、北大東島では1泊しかしませんでしたが、最低2泊。できれば3泊はしたいですね。
それでないと、全てを回り切れませんし、地元の方とゆっくりお話しもできません。
ハマユウ荘のレストランです。
広々としていました。
朝食です。
ハマユウ荘の中庭です。
何をしているのかと思ったら、カエルの卵を取り除いている所でした。
この作業をしないと、大変なことになるようです。
北大東島では、カエルが、あっちこっちで轢かれてぺしゃんこになっていました。
2階から見た北大東島灯台。
早速、ハマユウ荘が作成した観光図を片手に、前日から借りていた電動自転車で観光に出掛けました。
北大東島灯台です。
この灯台には、見える所に、本州などで見られるような灯台を示す表示がありませんでした。
それで、調べてみました。
灯台のある場所は、島の最も高い標高74mの黄金山の山頂にあり、灯台の光の到達距離は、22.5海里 ( 約42km ) で、海外の船舶による海難事故が続いたので設置され、昭和46年 ( 1971年 ) 12月13日から点灯されたそうです。
灯台を見た後、北港に向け走ったのですが、ここでアクシデント。
電動自転車のバッテリーがないことに気付きました。
それでハマユウにで引き返し、その後は、軽四のレンタカーで観光することにしました。
北港の入口、ゲートの所にあった休憩所とトイレです。
北港の入口ゲートは閉鎖されていました。
ゲートからは、陸揚げをする岸壁がこれだけしか見えません。
それで、横の岩に上ってみました。
海が荒れて大波で、岸壁の上まで海水が上がっているのが見えました。
次に、北港から西の方に走り、黒部崎へと向かいました。
離島とは思えない素晴らしい道路でした。
海岸線は、絶壁で荒々しい岩が続いていました。
綺麗な道路を走っていると、土を高く盛った所が続けて3つあり、異様な感じがしました。
この状況の写真は、撮ったと思っていましたが、ありませんでした。
この3つの高い盛り土の上は、いずれも上を平らにしていました。
これは、後で分かったことですが、
陸地を切り抜いて造る堀込式という用法を用いて造った漁港建設の残土の処理場で、ここを 「 大東ピラミッド 」 ということが分りました。
下から写せば、階段もありますし、ピラミッドの一部のように見えたかもしれません。
それで、この3つの山について、近くで工事をしていた人にお聞きすると、ハッキリは知らないが、この盛り土の上に福祉施設を造ると聞いているとのことでした。
その後も、西方へと海沿いの道路を走りました。
途中で、「 北大東総合暴露試験所 」 という看板があって、見慣れない施設がありました。
これも調べてみて分かったのですが、
この施設は、沖縄県で最も気象条件が悪いという北大東村において、過酷な自然環境もとで長期に亘り、電力・通信等の屋外設備の暴露試験を行い、塩害、風雨、紫外線等に対する耐久性評価や性能検証を行う試験場だそうです。
そして更に車で走っって元何かの工場になっていたと思われる建物の所まで行きました。
これが、北大東島燐鉱山遺跡に含まれるのか否か分かりません。
私は、岬とか灯台に興味がありますが、
ここまで来て、知らないうちに北大東島の北西角にある黒部岬を通り過ぎてしまっていたことに気づき、グーグルのマップで、その岬を探しまし、後戻りしました。
全く表示がないのでハッキリとは分かりませんが、この付近が黒部岬だと思います。
再び、西港の入口付近にある、北大東島燐鉱山遺跡まで戻りました。
北大東島燐鉱山遺跡です。
この燐鉱山遺跡は、国内でも数少ない鉱石の鉱山で、大正8年 ( 1919年 ) から昭和25年 ( 1950年 ) まで操業していて、採掘から加工、運搬、貯蔵、積み出しに至る、国内で唯一残るリン鉱山の遺構で、国の史跡に指定されているそうです。
写真ばかりで、よう説明できませんが、遺跡です。
運び出しをしていた所です。
岸壁が高いですね。
人と犬が小さく見えます。
足が竦むのに、犬は平気でした。
岸壁から見た遺跡です。
遺跡を見た後、今回、当初は北大東島から南大東島へは貨客船で行く予定にしていたので、予約などで何かとお世話になった方を訪ねました。
左にあるのが、北大東島港湾事務所で、右側には、貨客船から人や物を吊り上げるクレーンが入れられている倉庫です。
西港の直ぐ近くにありました。
倉庫を案内していただきました。
このクレーン車で、バケットを吊り上げるのですね。
特殊な技術が必要だそうです。
タイヤも凄いですね。
本来、このバケットに乗って貨客船に乗り、北大東島を出て、南大東島に向かうはずでした。乗りたかったですね。残念。
北大東島の港の拠点は、西港のあるここで、貨客船が来る時の海の状態や風の状態を見て、江崎港や北港に移動して作業をするそうです。
港湾事務所の前にあったアダンの実です。
西港の直ぐ近くにある北大東港西地区緑地です。
広々とした大きな公園でした。
工事中の西港の岸壁です。
ここに、「 国標 」 がありました。
「 国標 」 は、北大東島が日本の領土であることを示す重要なものです。
国標には、次の説明分が書かれていました。
明治18年、大東島が日本の領土であることを明確にするため、内務省の内命を受け、沖縄県令・西村捨三は正式な調査団を派遣した。県属・石沢兵吾らは出雲丸(船長:林鶴松)に乗船し、大東島に向かった。同年8月29日に南大東島に、8月31日に北大東島に国標を設置した。これが公式な記録に残る最初の大東島への上陸である。
北大東島の国標に記された内容は次のとおりである。
( この部分は削られていますが、 ここには、実地踏査者の氏名が書かれていたようです。)
建立当初の国標は木製であったが、風雨にさらされ劣化したため、昭和12年にコンクリート製により再建された。現在の国標は、西港公園を整備する際に、改めて木製で再建したものである。
当初の国標の位置は、現在とは異なり、北北西の方向、燐鉱貯蔵庫との間にあった。
国標を見た後、川の流れが変わるという、潮見橋に向かいました。
これは、その途中にあった、「 うふあがり 月桃加工施設 」 の前を通りました。
この施設は、島の特産である月桃に利用した商品を作っている工場
だそうですが、時間がなくてパスしました。
時間に寄り、橋の下の川の流れが変わると言う潮見橋です。
川の手前の先が50mくらいで行き止まりになっていて、潮が満ちて来ると川は手間へ側に、引き潮になると向こう側の海側に流れるというものですが、川には水草が沢山生えていることから、余り流れはないのではないかと思います。
それで、草を川に投げ込んで様子を見ました。
当時は、満潮まであと2時間半くらいの時刻で、干潮時から満潮時の差は98㎝ありましたが、潮が殆ど動きませんでした。
潮見橋の付近に置かれていた、サトウキビ・ハーベスターです。
製糖工場です。
来年1月から製糖が始まるとのことでした。
大東宮です。
明示36年 ( 1903年 ) に、製糖事業を営む玉置商会により創建されたそうです。
毎年9月には、大東宮例祭が行われ、島内を御輿が練り歩き、境内では、沖縄角力と江戸相撲の奉納演舞が行われ、八丈島からの入植者と沖縄本島からの移住者の文化が融合した独特の祭りだそうです。
もう行けないかもしれませんが、1度見てみたい祭りですね。
境内は、草が生えてしまっていますが、右側には、立派な相撲場がありました。
北大東村離島振興総合センターです。
北大東島で唯一の信号機です。
本来、信号機を設置する必要がないと思われますが、島の子供たちが都会に出た時に困らないよう、設置したものだそうです。
結構急いで回ったつもりで、未だ見残している所も結構ありましたが、ハマユウ荘に帰るのが、午後1時前ギリギリになってしまいました。
レンタカーを返した後、ハマユウ荘のレストランで大東そばをいただきました。
その後、空港まで送ってもらうのに時間があったので、近くの北大東村民族資料館に行ったのですが、来年3月31日まで改装工事の為、休館でした。
お世話になったハマユウ荘ともお別れです。
この後、一旦ハマユウ荘フロントまで戻り、そして北大東空港まで車で送ってもらいました。
続 沖縄 南北大東島・古宇利島旅行 ( 南大東島へ ) に続きます。