日本で稲作が始まった縄文晩期~弥生早期 以来,水田耕作は急速に普及していきました. 最初は傾斜地と自然水(沢水,湧き水)を利用した谷間の棚田(谷戸水田),すなわち容易に水田が作れる場所だけで行っていましたが,これでは 耕作面積を拡大する余地はありません.

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一方 平地の水田は,谷戸水田とは比較にならないほどの大面積の水田が,したがって圧倒的なコメの収穫量が期待できます.
しかし,一方で 多量の水を要求する稲にどうやって豊富な水を供給するか,すなわち大規模な灌漑水が必要と言う問題もあります.

平地の水田は 常に水不足のおそれがあり,水の取り合いを巡って,水争いは つい最近の江戸時代までは頻発していました.

水に恵まれた小面積の谷間と,大面積だが いつも水が心配な平地の水田,この問題は 谷間の水田をあきらめて,そこに小規模なダム,つまりため池を作れば解決すると すぐに気づいたはずです.しかし これは 古くから谷間で 何不自由なく水田耕作をしてきた人からは 受け容れがたい解決策です. 自分たちの田んぼは犠牲になれというわけですから. 現代の「ダムに沈む集落」とまったく同じ構図です.

 


ただし,十分なため池を築造できて,平地でも谷間並に 安定したコメの収穫が達成されるなら,全体としては その地域が豊かになります.「全体利益」か「個人の権利」か,現代でも存在するこの対立命題は,時に力ずくの武力によって解決されることもあったでしょう.

ただし 必ずしも暴力的な解決だけだったとは限りません.その地域のムラの長(おさ)同士が話し合って 谷戸の水田を潰して ため池にする交換条件として 新しく開けた水田の一部を与えるなどといった平和的な話し合いで解決していった例もあったのでしょう.
というか すべて血なまぐさい争いで決めるよりは,タイパとしてはこの方が合理的な解決法です.当該地域の自然水系で稲作を営む人達が全員合意して,水を最適に配分できれば結局は全員の利益になるからです.

ともあれ,暴力であれ 話し合いであれ,古代の日本では 平地の水田のために大きなため池を 次々と築いていきました.水田を増やせば増やすほど,食糧が満ち足りて豊かになれるからです.

 

さらに自分たちが消費する必要量を越えるコメが収穫できれば,それはとりもなおさず コメを交易品として使って,当時は貴重なハイテク素材だった鉄器や,宝物も得られます

 

 であれば,自然発生的にムラ同士が統合されて,流域全体を統合した米作共同体ができあがったでしょう. これが古代のクニ(「国」と漢字で書かないのは,現代社会の「国家」とは違うことを強調するため)の成立です.そしてこのクニには首長が必要でした.なぜなら 広域の水田に水を公平に分配するには,治水者としての権限と責任が必要だったからです.クニを統括する王の登場は必要であり,必然でした.

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この首長が恣意的に不公平な水の分配をしても 何の得にもなりません.そんなことをすれば 地域のコメの総収量が減るだけなのですから. したがって このようにして登場した首長は,力づくの為政者というよりは,合理的な判断が行えるという信望を集めることができた管理委任者のような存在だったでしょう.

 

よく日本史の教科書では

 

  • 『弥生時代になり稲作が始まると,支配者が登場した』とか
  • 『米作により,社会は 支配者と被支配層とに二分化された』

 

などと書いてありますが,どうして稲作が普及したら苛烈な支配者が登場するのか,そのメカニズムを説明していません.

だいたい「強権的で過酷な支配者」は,教科書にある この平和な光景と矛盾しています.どう教えているのでしょうか.

 


『古代社会だから すべて奴隷制だったに違いない』という決めつけから発想したマルクス主義の弊害でしょう.

もちろん だからと言って 穏やかな平和主義者だったなどとは申しません. クニの首長として,領地を豊かにするためであれば,谷戸の農民を追い出したり,水利権の取り合いを巡って隣のクニと戦うことは いささかも躊躇しなかったでしょうから.

九州から始まった 稲作が西日本に広がるにつれて,年間降水量の少ない 瀬戸内海沿岸地域で「高地性集落」が多く作られたのは,コメに必要な水源のある地形を確保する争いだった[★]と思っています.

遺跡を学ぶ_091_若林邦彦_倭国乱と高地性集落_観音寺山遺跡_2013_10_10_新泉社 p.30 図13

 

[★] ただし 定説はありません.