山間部の湧き水と傾斜地を利用した水田(=谷戸水田;やとすいでん)は,コメ作りに適している,という前回記事の続きです.

 


(C) 高橋邦明さん 大阪府 豊能町の水田

現在の日本では 主役は平地の水田です.

 


(C) FRANK211 さん

広々とした平野にどこまでも広がる水田は 心安らぐ豊かな風景です. 時にこれを「日本の原風景」などと評されるので,はるか昔からこうだったと思うのも無理はありません.しかし 山あいの谷地ではなく,平地に水田を作るのは実は大変なのです.これを意外と思う方は多いかもしれません.

 

ところで 米作には 多量の水が必要です.茶碗一杯分の米を作るには一升ビンで250本分もの水が必要です.

 


(C) 公益社団法人 米穀安定供給確保支援機構
 

谷あいの水田では 湧き水と地形の傾斜を利用して,田んぼに水を供給します.

 

平地であれば 川から水を引き込めるので一般に水源は確保しやすいと思われます. しかし,平地の水田の大きな課題は,水の確保よりも,水をどうやって排出するか,なのです.

 



田植えの時に田んぼに水を張ったら,あとは そのままなのではなく,品質の良い米を高い収量で得るためには,稲の生育に合わせて 一般に想像されるよりも ずっと頻繁に田んぼの水位を上げ下げする必要があります. 時には まだ稲刈り時期でもないのに,一時的に 完全に田んぼの水を抜くことすらあります.稲の生育を促進したり,病害虫の発生を避けるためです.

 


(C) 田中農場 『田んぼの水管理とは?』より改変

傾斜地の水田(谷戸水田)ではこれは簡単でした.しかし,平地では 水を抜きたい時に速やかに放水できる「排水路」が必要です. そして再び 水を張る際には 田んぼに導水できる「用水路」が必要です. 用水路と排水路,すなわち完備された農業用 灌漑(かんがい)設備が 平地の水田には必須です.

 

 

断面図からわかるように,平地の水田とは,実は人工的に造られた『棚田』なのですね. 何もない平地を わざわざ傾斜地の田んぼと同じにしているのです.

現在では 非常に大規模な農業水利施設が日本全国に作られています.大河の上流に農業ダムを築造し,ここに貯めた膨大な水を,すべての農地に張り巡らした用水路/排水路を通じて供給しています.
下図は富山県での例です.


(C) 富山県農業用水路安全対策ガイドライン[PDF]

実は 日本の中世~江戸時代前期までは,広い平野があっても 平地にはあまり水田は存在していませんでした. このような灌漑水路を作れなかったからです. したがってわずかでも傾斜のあるところだけが水田にされていました.

谷間の水田を見て,「こんなところまで田んぼにするとは」と感心した年配の人の感想とは逆に,日本では まず すべての傾斜地に水田が作られ,もはや適地がなくなると,なんとか工夫して平地に水田を作っていったので,順序は逆だったのです.

江戸時代に入ると,各地の大名は禄高制ですから,つまり コメの収穫量そのものが領地の国力なので,競って水田開拓に乗り出しました. 領民と力を合わせて大規模な灌漑設備,とりわけ【排水路】を整備して,それまでは 水田にすることが不可能だった湿原や沼地の水はけをよくして水田に変えていきました(大阪では 豪商 鴻池善右衛門が開拓した 鴻池新田[こうのいけしんでん]が有名です). 日本全国で『~新田(しんでん)』という地名の場所が,平野の海岸や,氾濫をくり返す大河に近い平坦地に多いのはこれが理由です.昔は まったくの不適地だった場所がコメの穫れる水田になったので『新田』なのです.