宮崎の大規模古墳群は,シラス台地という地形上の特質,そして大正時代に綿密な調査を行ったおかげで,よく保存されていることを今回の旅で理解しました.

 

とはいえこれらの古墳は保存されてはいるものの,ほとんどの古墳は 未発掘なのです.宮内庁が所管する男狭穂塚・女狭穂塚古墳を除いては,誰でも立ち入れるし,人手と資金さえあれば発掘・調査はできるのですが,ほぼ手付かずです.

たしかに 畿内・大和地域の前方後円墳が4世紀以降にこの地にさかんに築造されたことは事実なのですが,かといって当時の宮崎地方が 完全に大和政権のコピーであったとも断定できません. なぜなら畿内モデルの前方後円墳を築造しつつも,南九州独自の地下式横穴墓 は,畿内には(どころか南九州以外の全国どこを見ても)まったく類例がないものです.

 

 

地下式横穴墓とは,既存の古墳の裾から中心に向かう横穴[下図;着色部]を掘り下げて 地下に石造の玄室(埋葬室)を設けたものです.

宮崎 下北方5号墳 地下横穴墓

 

東 憲章 『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』
(C) 新泉社 2017

 

この形式では,埋葬品が土に直接埋もれないので,多くの装飾品,特に鉄剣,鉄製短甲などが朽ち果てずに残っていました.


『生目古墳群とみやざきの古墳群』
(C) 宮崎教育委員会

 

鉄剣は表面の錆を落として研ぎ直してみると,当時の輝きが復活するので驚かされます.

 

同じ形式の古墳とはいっても,実は地域それぞれ独自の特色もあることから,弥生時代から古墳時代になって 急に日本全国が一様の文化に統一されたのではなく,それ以前から共通の埋葬習慣・文化基盤があったのではないかと感じさせる古墳巡りの旅でした.

[続く]