赤城三社、まとめてみた【超お世話になりました】 | 週刊じんぎかん〜神祇伯の神社放浪記〜

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ただの神社好きが参拝した神社の感想なんかを感情の赴くままに書いてます。あと長文です。
一応毎週日曜に更新しますがたまに長らく投稿しない時があります。なので「あ、更新してるわ見てやるか」な軽ーい気分で読んでください。
どうぞよろしくお願いします。

こんばんはー、私です。

 
新年始まってもう2/3終わりましたね。
 
大学の授業もほとんど終わって、だんだんと学生生活が終わろうとしています。
 
働きたくねぇ…
 
こないだ友人とラーメン食べながら、
 
一年時からもっと遊んどけばよかったなぁ…なんて話し合ったりして、
 
もう学生生活の後悔が始まっています。
 
特に私なんかは就職先が京都なので、
 
今の友人たちとはちょっとやそっとじゃ会えなくなってしまいます。
 
まぁ夜行バスマスターなので普通に東京行ってしまうかもしれませんが
 
逆に地元には近くなるので、両親には近くなりますね。
 
さて、過ぎ行く学生生活とともに、
 
季節も過ぎて二十四節気は「大寒(たいかん)」となりました。
 
訓読みすると「大寒(おおさむっ)」ですね。
 
その寒い心持ちの通り、一番寒さが強い季節という意味です。
 
そこ、くだらないとか言わない。
 
七十二候では初候「款冬華(ふきのはなさく)」です。
 
蕗の薹が蕾を出し始めるいう意味なのですが、
 
太陰暦での季節まわりなので、本当に蕗の薹が出てくるのはも少し先でしょうか。
 
蕗の薹、天ぷらにすると美味しいですよね。
 
でもあれ、毒性が強いので灰汁抜きしないと食べられないらしいですよ。
 
毒あるやつは美味い例の一つでしょうかね。
 
 
さて季節感のある話はこの辺にして。
 
今回はまた三社シリーズを紹介します。
 
赤城神社 総本宮
 

そう、ついに来ました。
 
今回は赤城神社の本宮三社です。
 

赤城神社は群馬県にある霊峰赤城山を神体山として祀る神社です。
 
東京だと境内にカフェを出してる赤城神社が有名でしょうか。
 
あんな感じで群馬を中心に関東圏に300ほど分社がある神社です。
 
また、空母赤城の名前の由来ですね。
 
『延喜式神名帳』において上野国勢多郡の名神大社として記載されており、
 
一〜九宮まで設定されている上野国において二宮として扱われています。
 
先程も書いたとおり、赤城神社の総本宮ではあるのですが、
 
国史によって本宮とされる神社がそれぞれ違い、現在では三社が本宮の比定社として挙げられます。
 
赤城神社(二之宮町)
 



まず一社目が二之宮町にある赤城神社です。
 
こちらは町名にちなんで二宮赤城神社と呼ばれています。
 
赤城山の信仰においてこの神社は集落で祭祀を行っていたことから、赤城神社の里宮とされ、二宮と認定されたのはこの神社からだとされています。
 
そりゃまぁ国司も赴任するたび巡拝するのに赤城山山頂まで行ってられないですからね…
 



由緒は以下の通り。
 
なんか倭建命さん、いろんなところで社建ててんな…
 
なんか前もホトカミで神社の記事編集した時、倭建命が地元に似てるってことで建てた神社について書いたぞ…どこだっけ…。
 







拝殿と本殿です。
 
見た目木材の色あせた感じが時代を感じさせますね。
 
この二宮赤城神社は、平安時代は国司も参拝したことから里宮として崇敬を集めてましたが、
 
鎌倉時代に入ると仏教強くなり、神仏習合の影響を受けて赤城山が修験道の修行場となり、
 
もう二社の方へ信仰が流れていきます。
 
そして戦国時代には後北条氏によって衰亡させられてしまいました。
 
江戸時代には他の赤城神社の援助で復興します。
 
この復興の際に納曽利面が奉納され、文化財に指定されています。
 
明治期には近代社格制度において郷社に列格しました。
 
集落で信仰を集めていたためか、他二社と違い、境内の末社が数多く、大きめの社で建てられています。
 
三社の中では、平安時代が全盛期だった赤城神社です。
 
 
赤城神社(三夜沢町)
 
さて続いては、三夜沢の赤城神社です。

赤城山の麓に鎮座し、土地にちなんで三夜沢赤城神社と呼ばれています。
 
由緒は二宮赤城神社を参照。
 
二宮に書かれている御神体を奉勧した三夜沢の神社がここになります。
 

二宮が里宮とされたのに対して、こちらは山宮とされ、
 
鎌倉時代の修験道の強まりによって赤城神社本宮として信仰を集めることとなりました。
 
江戸時代に入ると前橋藩主の酒井氏が山頂の赤城神社を信仰し始め、正一位の階位を叙されましたが、こちらには正一位は叙されず、
 
江戸後期に神祇管領吉田家によって階位を叙されます。
 
おのれ吉田め…!!
 
 
その後はやはり神社全体を支配していた吉田家をバックにつけたため、
 
勢力関係は逆転していきます。
 
そして、明治期には赤城神社の信仰の中心として目されていたことから県社に列格します。
 
拝殿と本殿は珍しく神明造です。
 
神明社でも護国神社でもないのにこの建築様式なのは貴重です。
 
本殿の側面には細いですが棟持柱があります。
 
他にも、特殊神事として宮中でしか基本行われていない四方拝が元旦に行われます。
 
また、この三夜沢社二宮社は直接的な里宮と山宮の関係から、
 
二宮社から三夜沢社まで御神体が参向する神幸祭があります。
 
ちなみに、拝殿前の杉には大蛇退治で有名な藤原秀郷が植えた俵杉と呼ばれるものがあります。
 
そう、あの某ソシャゲで米俵投げて攻撃したり、米食べさせてスタミナ底上げする、俵藤太です。
 
なぜこうなった…
 
 
 
赤城神社(富士見町赤城山)
 

みんなお待たせ!!!!
 
赤城山の山頂に鎮座する赤城神社で、大洞赤城神社と呼ばれています。
 
赤城山のの噴火によってできたカルデラ湖の小島に鎮座しています。
 
通称の「大洞」は大小の湖のうちの大きい湖の呼び名「大沼」に因みます。

 
この神社のみ他二社と違って、祭神が大己貴命ではなく、赤城大明神とされています。
 
これはおそらく、赤城山が修験道によって信仰を集めた際、山頂であるこの神社が本宮とされたためでしょう。
 
その影響のためか仏教色が強く、カルデラ湖の大きい方「大沼」を千手観音、「小沼」を虚空蔵菩薩として神格化されました。
 
また中央火口丘を地蔵菩薩があてられ、大洞社三社明神と称されました。
 
書物によってはここを赤城神社の本宮とし、その他の二社を里宮として、または三夜沢社の方を中社として位置付けられることもあります。
 
その高い信仰を集めたまま江戸時代には前橋藩主酒井氏に鬼門の守護神として崇敬され、
 
正一位の階位を叙されました。
 
当時は二宮社が衰亡していたため、赤城神社の本宮論争はここと三夜沢社の間で行われました。
 

しかし、三夜沢社吉田家に「本宮」「総社」「正一位」を叙されたことで勢力は逆転していきます。
 
同じように吉田家に授与を求めましたが、三夜沢社が拒否を示したため、叶いませんでした。
 
 
さて、ここでみなさん、この記事の一枚目の画像に戻っていただきたい。
 
 
この画像は大洞社の拝殿に掲げられている扁額なのですが、
 
その時をよーく読んでいただきたい。
 

「神祇伯資延王謹書」と書かれています。
 
そう、これは神祇官の長である神祇伯を代々世襲してきた白川家の第28代目当主である資延王大洞社に送った授与の扁額なのです!!
 
幕末の時代には吉田家吉田神道と、復古神道の興りからできた白川家伯家神道が神職任命権を争っており、
 
この赤城神社二社でも、両者の代理戦争のような形になってしまいました。
 
その後、明治期には郷社に列格しました。
 
 
 
戦後、昭和45年(1970)に山頂の厳しい自然環境によって社殿が老朽化が激しかったことから、大沼の麓から現在の小鳥ヶ島と呼ばれる地続きの離れ小島に移築し、平成18年に再建されました。
 
赤城山、標高1828メートルらしいです。
 
予想してたより高いですね…
 
春祭りの時期なんか行くと標高が高いので、雲が霧のように周りを覆ってることがあります。
 
そのため、新しく名前になぞらえた赤い色が綺麗に見えます。
 
現在は春祭り(開山祭)、夏祭り、秋祭りが行われ、赤城山のツーリングに来たライダーや釣り人、風景を楽し見に来た人たちで賑わってます。
 
夏には花火も上がります。
 

え、なんでそんな知ってるかって?それはね…
 

まわし者だからよ!!
 
 
 
 
という感じで、今回はいかがだったでしょうか。
 

赤城神社は個人的にお世話になった神社なのでいつか取り上げたいなとは思っていたのですが、
 
今回このような形で実現させてもらいました。
 
みなさんも是非、この三社を車など使って連続で巡拝してみてください。
 
赤城さん登ったりするのでとても楽しいですよ。
 
ちなみにこの三社、地図で見るとほぼ一列に並んでいます。
 
さて次回は、また考えてません。
 
そのうち書くと思いますのでお待ちいただければと。
 
それでは、またお会いしましょう。
 
 
今回も最後まで読んでくださりありがとうございました!
 
意見感想待ってます。