週刊じんぎかん〜神祇伯の神社放浪記〜

週刊じんぎかん〜神祇伯の神社放浪記〜

ただの神社好きが参拝した神社の感想なんかを感情の赴くままに書いてます。
一応毎週日曜に更新しますがたまに長らく投稿しない時があります。なので「あ、更新してるわ見てやるか」な軽ーい気分で呼んでください。
どうぞよろしくお願いします。


おはようございます。わたしです。
 
また1ヶ月ほど空いてしまいましたね。
 
一気に寒くなってしまって布団から出れなくなってしまいましたえーん
 
叶うことなら布団の中の温度を維持したまま仕事がしたいです。
 
 
さて気を取り直して本題へ移りましょうか。
 
 
 今回見出しの通り、写真がめっちゃ多いです。
 
県社 志々伎神社
 
 
 
神社鎮座地:長崎県平戸市野子町
 
神社御祭神:十城別王(とおきわけのみこ)
 
神社旧社格:国幣小社(延喜式)右矢印県社(明治)
 
神社御朱印:不明
 
というわけで今回は長崎県の志々伎神社です。
 
『延喜式』神名帳において肥前国松浦郡鎮座として記載されている式内社で、
 
同じ松浦郡の式内社には唐津市の田島神社が記載されています。
 
松浦郡かなり広いんですねびっくり
 
ちなみに式内社は全国にたくさんありますが、
 
長崎県においては壱岐島、対馬を除くと本土唯一の式内社となります。
 
 
しかも鎮座地である平戸市野子町は長崎本土でも一番西の端にあり、
 
近くにある宮ノ浦港は上の写真の通り「橋で結ばれた日本最西端の港」を名乗っています。
 
・・・果たして本土と呼べるのか。いやしかし道続いてるから本土か。
 
つまりは最西端の式内社と呼べるかもしれませんね。
 
しかも驚くべきはこの神社・・・

 

 
社殿が4箇所あります!!!
 
画像では5箇所だと思いますが、重なってるアイコンの右側は「跡地」なので除外します。
 
4ですよ4!!!宗像大社や志賀海神社でも三社なのに四社!!!
 
しかもこの志々伎神社、同名の神社が長崎本土を中心に志々伎、志々岐、志自伎などの字で、
 
壱岐、対馬、五島列島にまで分社があります。
 
なんなら最初Google Mapで調べて行った志々伎神社、分社の方でしたしね。
 
そこから調べ直して「え!!!?まだ奥!?」とビビった記憶があります。
 
ではその四社を一社ずつご紹介していきましょう。
 
志々伎神社 邊都宮
 
 
こちらの邊都宮は地図上だと・・・あ、書いてくれてますね。
 
宮ノ浦港の山側に鎮座しており、なんかどうもwikiによれば、
 
御祭神である十城別王さまの武器庫を転用したものなんだそうです。
 
ちなみに十城別王という方は日本神話屈指の大英雄・倭建命さまの御子で、
 
第14代仲哀天皇様の異母兄弟にあたります。
 
三韓征伐の際に神功皇后様に従って九州に渡り、そのまま留まって西国警護を任されたそうです。
 
分社が多いのはその際に管理者としての伝説が残っているということでしょうか?
 
 
 
なんかシュロやソテツを見るとヤシの木っぽさがあって南国な気がしてきましたね。
 
 
軽く舗装された石段を登っていく途中に・・・
 
 
蛇口があったのでお浄めを。ちなみに捻るとめちゃくちゃ出ます。
 
 
 
こちらが拝殿ですね。
 
確かによくある神社の拝殿ではなく普通の小屋に見えますね。
 
もちろん中には案とか語弊とかはあるんですが、賽銭箱はありません。
 
 
 
 
こちらは社務所のようですが、いい感じに寂れてますね。
 
こちらでは祭祀は行われているんでしょうか?
 
 
こちらは本殿です。
 
こちらもまたこじんまりしてます。
 
武器庫らしいのはどちらかというと拝殿ですね。
 
 
 
地図上だと山の中っぽいところにあり道路に面していないので
 
一見わかりにくいのですが、上の「宮ノ浦漁民研修センター」の建物の裏手奥にあります。
 
・・・漁民研修って何するんでしょうか?船の運転とかですかね。
 
中は役所ではなく無人で児童会館みたいになってます。
 
 
 
そしてこの邊都宮と海の間を隔てるように灯籠がありまして、
 
その先の海上にはなんと・・・
おいこら日の傾きぃ!!!!
 
ちょっと影ってわかりにくいかもしれませんが、
 
中心の島に鳥居が立っています。
 
これもしかして船乗せてもらわんと行けないやつなのでは・・・?
 
 
 
港の隅に堤防が築かれていました。
 
Map上だとこの堤防書かれていないので一瞬無理なのではと思ってました。
 
志々伎神社 沖都宮
 
 
 
で、こっちが海側の一の鳥居。扁額に「沖都宮」と書かれていますね。
 
おそらくかつてはこの鳥居から船で渡って神社に入るようになっていたのでしょうが、
 
 
現在は船用の堤防が築かれて直接船をつけることはできなくなっています。
 
付けられないことはないですが、大きく遠回りすることになりますね。
 
逆にこれだけ港として成り立ってる中に小島として神社があるのは珍しいですよね。
 
 
 
こちらが沖都宮の拝殿です。
 
wikiによればこちらが十城別王さまの墓所なんだそうな。
 
というか鳥居が綺麗ですね。再建されたんでしょうか。
 
そしてしめ縄も綺麗。大事にされてるようですね。
 
 
 
と思ったら手水舎にペットボトル!!!誰やコラァ!!!
 
と思ったら糸ついててなんか意味ありげだったのでそのままにしました。
 
 
 
 
正面には獅子狛犬さんの獅子のみ。しかもかなり風化してます。
 
 
 
そしてソテツが多い。
 
ちなみにこれだけ南国っぽいと言ってますが、
 
ソテツは自然においては日本固有種ですびっくり
 
あんまり見受けられないのは本州で生えてることが少なく、
 
基本的に九州を中心に生えているからです。
 
 
左手奥には何かしめ縄で括られた壊れたオブジェが・・・
 
何か花の形に見える台座がありますね。
 
仏教由来の何かでしょうか?
 
 
この野子町の地形も変わっており、海に面している土地が山にも面しています。
 
絶壁というわけではなく、海側から見て起伏があるという目に優しい風景が広がります。
 
そしてやはり山が近いということでめっちゃ飛んでるトンビ!!!
 
彼ら鷲や隼みたいに借りをするわけでなく、
 
カラスと同じように死肉とか動かないものを標的にするんですが、
 
海ってエサあるんですかね。
 
 
さて、それではここからは山側の志々伎神社を紹介します。
 
 
志々伎神社 中都宮
 
 
地図上ではアイコンの重なってる左側が指してるのがこの場所で、
 
基本的に志々伎神社の祭祀はここで行われています。
 
いいですね、この先の見えない未知の空間に入るような雰囲気、大好きですわ。
 
と期待して山道踏み込んでみたら・・・
 
 
かなりの悪路!!!
 
階段があるようなないような、ほぼ岩の起伏だけのような・・・
 
実際岩の起伏がほとんどで階段があるようなないような・・・
 
もうなんか表参道からこんな険しい神社初めてかもしれない・・・
 
 
 
そのまま登っているとこのような看板が。
 
こちらの道は志々伎神社一の鳥居の隣に建っている阿弥陀寺に続いているのですが、
 
なぜ「四国八十八ヶ所霊場」と書かれているのでしょうか・・・?
 
実際本家の四国八十八ヶ所に分院があるのかと調べてみたらそもそも「阿弥陀寺」がなかったです。
 
しかしネットを調べると何か興味深いものが。
 
その名も「平戸島八十八ヶ所巡り」!!!!!!
 
どうやら平戸島にはかの有名な空海さんが唐に発つまで逗留したとされ、
 
四国八十八ヶ所霊場が空海さんが開いたという伝承から、
 
第三十五代平戸藩主松浦熈公が安政二年(1855)に定めたのだそうです。
 
ちなみにこの「平戸島八十八ヶ所巡り」は寺社混じった形になっており、
 
この志々伎神社も中都宮、邉都宮、沖都宮が数えられています。
 
詳しくはこちらをチェック!!下矢印

 

​​​​​​
 
で、参道に戻りますが、ほんとに上のような段差があるような道が続きます。
 
しかし徐々に神社に近づいてくると・・・
 
 
ちゃんとした石段になります。すでにここまでで足痛い爪先痛い・・・
 
 
こちらが二の鳥居、志々伎神社中都宮の入り口になります。
 
真ん中には車が通れるようにレール(?)が作られていますね。
 
そして脚立もありました。注連縄が綺麗ですし最近取り替えたのでしょうか?
 
ちなみにここの扁額だと「志自伎神社」とあるので神社名の読みは「しじき」となるのがわかります。
 
 
 
山道はこんな感じ。玉砂利じゃなくてれき石混じった自然のままって感じがします。
 
 
 
奉納者方のお名前が刻まれた碑文もあります。というかここの氏子区域ってどこなんや・・・
 
 
 
由緒書きです。御祭神の十城別王さまは父君の勇猛果敢な血を受け継いだと書いています。
 
確かに倭建命さまは日本神話の中でも屈指の大英雄と呼べるでしょうね。
 
各地の神社での倭建命さまの伝承からしても派遣されすぎですわ。
 
 
 
こちら拝殿です。森の中の神社にもかかわらずとても綺麗な建物ですね。
 
先ほども述べましたが、現在は神社の祭祀はこの中宮が中心で行われているそうです。
 
そしてこの神社、内部に入って参拝ができます。
 
 
内装めっちゃ綺麗やんけ!!!!
 
超びっくりしました。宮ノ浦港の邉都宮が結構歴史を感じる建物だったのに対し、
 
ここ数年に立て直されているようですね。
 
 
 
ちなみに授与品もありました。お札と絵馬とおみくじですね。
 
御朱印に関しては確認ができませんでした。
 
ちなみにおみくじは「吉」でした。幸先がいいですね。
 
 
 
授与所っぽい建物もありました。正月は稼働するんでしょうか?
 
 
 
・・・あれ、もしかしてこの池の形ハートじゃね???
 
 
 
本殿は切妻造で、逆にこっちは築年数長そうですね。
 
 
 
・・・さて中宮はこのへんにして、最後の一社にいきましょうか
 
志々伎神社 上都宮
 
 
さてそれでは最後ですが、上の地図だと一番右側のマークの場所で、
 
がっつりしっかり山の中です。なんならこの志々伎山の山頂です。
 
あ、ちなみに上のルートマップの通り、中都宮までは車で上がることができ、
 
二の鳥居の前に駐車場があります。
 
 
 
そしてこの中都宮の後ろ側から山に上がることができます。
 
この山も修験の山として信仰があったようですね。
 
というかこの辺境にありながらも明治こ近代社格制度においては
 
県社に列しているのはある意味すごいですね。崇敬が篤いのがわかります。
 
 
山頂の方に向かって歩き出してすぐにこちらの「中宮跡」とある遺構が現れます。
 
実はもともと志々伎神社の中都宮はこの階段の上にあり、現在の場所と比べると
 
少し奥まった高い位置にありました。
 
中都宮に関しては長い歴史の中で山頂下から中腹、そしてこの跡地と何度か遷座しており、
 
現在の鎮座地は明治の神仏分離の折に廃寺となった別当寺の円万寺があったところだそうです。
 
そして実はこの中宮跡も「旧式内社志々伎神社跡」として長崎県史跡に指定されています。
 
やはり長崎県本土唯一の式内社というのが大きいでしょうかね。
 
 
 
中宮跡の前を通り過ぎると注連縄が山道を区切っています。
 
まさしくここからは神域といった感じでしょうか。いや神社ですからもっと前から神域ですが。
 
 
 
道中は普通に山道なので舗装された石段などはなく、
 
草木の取り払われた獣道に木の根の自然の階段が続きます。
 
そして徐々に段差はどんどん増えて道も険しくなっていくと・・・
 
 
みなさんこの写真中央をご注目ください。
 
ロープが引かれています。
 
これは道を塞ぐように引かれているのではなく道に沿って引かれています。
 
つまりはこのロープは命綱ということです・・・
 
しかも最終的には・・・
 
 
注意書きまで現れました。
 
実際にはロープなしでは全く歩けないわけではないですが、
 
山道のはばがそんなに広くないですし、山の斜面なので少し傾いているのもあって
 
ロープないと足を滑らせて崖下に落ちそうなので持っていて損はありません。
 
 
 
大体15分ほど進むと「願掛け石」という注連縄が巻かれた岩がありました。
 
由緒がきによると、十城別王さん軍状を見るため志々伎山に登る途中に、
 
賊の流れ矢に当たってしまいます。
 
路傍の石に腰掛けて矢を抜き取り大地に突き立て落命されたそうです。
 
その腰掛けた路傍の石がこの願掛け石で、滴った血が苔になったと言われています。
 
・・・あれ、願掛け石になった由来は??
 
ともかく、この志々伎山と御祭神の関係は明らかになりましたね。
 
 
 
少し開けたところから上を見上げると、山頂っぽいとんがりが。
 
「いやまさかあんなところまで登るわけないやろ〜(笑)」とか思ったら、
 
まさかあの気楽さを後悔することになるとは・・・
 
 
大体20分ほど進むと小石がたくさん積まれた大きな岩がありました。
 
これは一体何の儀式なんでしょうか・・・
 
真っ先に浮かんだのは三途の川沿いの賽の河原の石積みでしたね。
 
親より先に亡くなった子供達が河原の石を積んで鬼に崩されるという苦行ですが、
 
流石にそれとは関係ないと思うんですけどね。
 
となるとやはり登拝にあたっての通過儀礼でしょうか。
 
 
 
ちなみにこれが私の作品です。一番手前だとお思いでしょう?
 
残念。実際は中央左に見える一番奥の石の塔です。
 
というかかなりの芸術家が上られているようですね。
 
 
また先程の石積みを終えて進むと左手側の崖下に小さな祠を見つけました。
 
 
image
 
石の塔たちの前にこのような看板があったので、この祠が「稚児の塔」なのかもしれません。
 
このほかには祠は一切見えませんでしたし。
 
ちなみにこの稚児の出身とされている「御厨」は現在の松浦市の沿岸部にのことです。
 
というか哀しみの末に山登るような誤解って何を疑われたんでしょうか・・・?
 
 
 
だいぶ山道外の風景が高い位置に見え始めてきた時新たな看板が。
 
「草履置場」と書かれていますね。由緒がきによれば、
 
この志々伎神社が修験の山だったのは前述した通りですが、
 
この場所から先は山頂まで草履を脱いで裸足で上がる慣わしになっていたようです。
 
つまり裏を返せば頂上まであと少しということでは・・・!?
 
 
 
ここからは木々の道が開けて、岩壁を登っていくようになります。
 
確かにこれなら滑りやすそうな草履よりは、踏ん張りの効く裸足の方が良さそうではあります。
 
 
 
あれ、このとんがりどっかで見たことあるような・・・
 
しかもとんがりに向かって道が続いているような・・・
 
 
 
岩ペキを登った上の方の木立を抜けていきますと・・・
 
 
 
左右どっちも海が広がっていました。風邪まぁまぁ吹いてて怖いのなんの。
 
命綱は手放せませんでしたわ。
 
   
 
走行しているうちに到着しました山頂です。
 
こちらが志々伎神社上都宮です。石造りの祠のような構造です。
 
いや、やっぱり山頂の神社といえばこうでなくてはいけませんね。
 
こじんまりと、それでいて雨風に長年晒された歴史を感じます。
 
 
 
こちらが本土側の風景ですね。
 
中央の湾のように見えるのがおそらく船越町の港です。
 
実際この野子町に来るには船越町の横を平戸田平線を通ってくることになります。
 
ちなみにこの志々伎山、標高はそれほど高くなく、347mしかありません。
 
ただ、ひたすらに、登山道が険しいだけなんですがこれがまた大変なわけです。
 
 
上都宮の横にある標識の下、木箱がありますが鍵がかかってないので開けることができます。
 
いや、むしろ開けていただきたい。
 
中身に関しては・・・是非とも登拝した際にご自身で確認してみてください。



 
あ と が き
 
という感じでいかがだったでしょうか。
 
式内社をめぐり始めて数年が経ちまして、この志々伎神社もずっと行きたい神社でしたが、
 
場所が場所なだけになかなかいくことの叶わない神社でした。
 
それゆえに今回無事にお参りできたことが大変嬉しかったですね笑い泣き
 
そしてこのブログを見て志々伎神社へ行こうと考えてらっしゃる方々で、
 
登拝をする予定の場合は最善の注意と脚力と握力に自信のあるうちに行ってください。
 
そして登りも大変でしたが、何より気をつけなければならないのは下山です爆弾
 
まじでどこ足場かけてたっけと思えるくらい足元の記憶がおぼつかなくなります。
 
とはいえ登り切った時の達成感はやはり低くとも山であるので最高でしたキラキラ
 
是非ともお参りに平戸へ足を運んでくだされというところで、今回は筆を置きたいと思います。
 
次回は必ず来週書きますのでお楽しみに
 
それでは!!!!バイバイバイバイ
 
最後まで読んでくださりありがとうございました。
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