物部神社、参拝してみた【鎮魂祭参列したよ】 | 週刊じんぎかん〜神祇伯の神社放浪記〜

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ただの神社好きが参拝した神社の感想なんかを感情の赴くままに書いてます。あと長文です。
一応毎週日曜に更新しますがたまに長らく投稿しない時があります。なので「あ、更新してるわ見てやるか」な軽ーい気分で読んでください。
どうぞよろしくお願いします。

みなさんどうも、お久しぶりでごさいます。


前回の投稿からかなり空いてしまいましたね。

僕は元気ですよ!!!

あ、顔合わせてるから知ってる?だよね。

11月がまぁ特段忙し…かったわけでもなく、
単純に書くネタが切れてたんですよね。

あと、目の調子が悪くて1時間以上画面見られない日が続いて書けなかったりとかしてましたけど。

季節もかなり過ぎて、二十四節気は「小雪」もう雪の字が入るようになりましたよみなさん。

今年の夏はどえらい酷暑でしたけど、反面冬はどうなるんでしょうか。夏につられて上がるのか、反比例して下がるのか。

七十二候は末候「橘始黄(たちばなはじめてきばむ)」です。

日本に古くから自生していて、常緑樹なのでその実は「永遠の実」とされていたとか。

つまりは柑橘系の果実が美味しくなってきた頃ですから、ミカン食べて風邪予防ですね。

そういや中国の古語で、橘は食べられて、枳(からたち)は食べられない、みたいなこと書いてたのなんだっけ?論語?

とまぁ前振りはこの辺にして、いつものやつをやりましょう。

今回は石見国一宮、物部神社を紹介します。

暗っ!!!

冬の午後6時くらいに行ったものですから、夜はとっくに更けてます。

物部神社は島根県の西側、山口県寄りに配置された石見国の式内社です。明治期には国幣小社、現在は神社本庁下の別表神社です。

御祭神は主祭神が宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)で饒速日命(にぎはやひのみこと)の子神です。
社名にある「物部」は朝廷の有力豪族だった「物部氏」のことを指し、宇摩志麻遅命は初代物部氏とされていることから、物部氏の起源の神社とされています。
手水舎です。よく見ると勾玉の形に彫られてますね。

物部氏は大和国を本拠地としていた有力豪族で、饒速日命を祖神とする神別氏族です。

日本書紀においても饒速日命は神武天皇より先に大和入りを果たしており、神武天皇を天孫と認めたことで忠誠を誓い、橿原に即位するとき手助けをしたといいます。

その関係から物部氏も有力な豪族となり、鉄器や兵器の製造を生業としていました。

その後も刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓の職務を担当する解部(ときべ)を配下として、盟神探湯の執行者とも言われています。

物部氏で有名な人物といえば、九州の磐井の乱を鎮圧した物部麁鹿火(あらかい)と、蘇我氏と争った物部守屋ですね。

物部守屋は超過激な排仏派で、崇仏派だった蘇我馬子と対立し、当時天然痘が流行した原因を異国の神(仏教)を信仰したとして天皇に仏法を止めさせ、自ら寺に赴いて仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ捨て、尼をひん剥いて鞭打ちにしたとされるくらい過激派です。

信長に負けないくらいヤバいやつです。

しかし最終的に、自らが立てようとした皇子を推古天皇と蘇我氏に誅殺され、本人も屋敷に攻め入られ戦死しました。

これによって物部氏は衰退していき、大化の改新まで蘇我氏が猛威を振るう時代となりました。



社殿…なんですが、暗くて見えづらいですよね。


昼間だとこんな感じ。

本殿は春日造の変形型とされていて、本来春日造は春日大社や奈良の生駒大社のように、四殿ほど並んでいるため一殿ごとのサイズが小さめです。

しかし物部神社は本殿は1つしかなく、その分大きく作られているため、春日造では最大とされています。



社殿の幕に描かれている社紋は「ひおい鶴」と呼ばれ、宇摩志麻遅命が鶴に乗って石見国に降臨されたことを由来としています。

また、物部神社は全国にも分社が存在し、そのいくつかは『延喜式神名帳』に記載されるほど有力視されていました。

これもそれだけ物部氏の朝廷内での力が強かったということでしょうか。

確認できるだけでも石見国以外に、越後国二社、越中国、佐渡国、甲斐国、尾張国、武蔵国(物部天神社という社名で)と、東日本に多くあります。
 
ただし、御祭神に関しては、饒速日命か布都御魂神が多いようです。


さて、今回11/24の夜に物部神社へ参拝したわけですが、目的としては「鎮魂祭」に参列するためでした。

鎮魂祭は、宮中において新嘗祭、大嘗祭の一日前に行われる宮中祭祀です。

由来としては、神武天皇に忠誠を誓った饒速日命が、天皇として即位する神武天皇のために行った祭祀とされ、古くから大嘗祭と同じく重要視された祭祀です。
これを諸神社で古い形で今も行なっているのは
・越後国一宮 彌彦神社

・二十二社の中七社 石上神宮

そしてここ物部神社の三社です。



 他にも同じ目的で摂津国の坐摩神社もやっていますが、由来はわかりません。

また全国いくつかの護国神社が鎮魂祭を行なっていますが、こちらは祭日が7/15で目的が慰霊祭と同じであるため、全くの別物と考えられます。

なぜこの三社が鎮魂祭を伝えているかというと、
・物部神社…鎮魂祭を行った宇摩志麻遅命の神廟を祀るため

・石上神宮…宇摩志麻遅命が鎮魂祭を行うために宮中に祀った布都御魂剣を御神体とするため。

・彌彦神社…宇摩志麻遅命の異母兄弟神である天香山命のの神廟を祀り、同じ饒速日命の子で鎮魂祭に関わっており、伝承されていたため。

という感じで、各々関係性があります。

ちなみにそれぞれ祭日が違っており、石上神宮は宮中と同じく11/22、物部神社は11/24、彌彦神社においては4/1と11/1に行われます。

越中国、越後国、および佐渡国に物部神社があるのは、おそらく越の国を平定した天香山命を祀る彌彦神社があることが関係していているでしょう。

そして、今回は11/22に石上神宮の鎮魂祭へ参列したあと、翌日に島根に移動、24日に出雲大社参拝後、同日夜、物部神社の鎮魂祭へ参列。
それから25日早朝に米子→岡山を経由して東京へ戻り、千葉でサークルの仕事をしたあと、夜通し酉の市の助勤というスケジュールでした。

やめて!!アホだろとか言わないで!!知ってるから!!

というか同期たちにも散々言われました。アホだのバカだのと。

若さだからできることだ。

「鎮魂」と呼ばれていますが、西洋の鎮魂歌(レクイエム)のように「死者を慰める」という意味ではなく、「自らの魂を身体から離れて浮遊しないように鎮める」という意味があります。

なので、レクイエムを「鎮魂歌」と訳す時点で間違いであり、日本風に言うのであれば「慰霊歌」となります。

宮中の鎮魂祭は、新嘗祭・大嘗祭という宮中祭祀で最も大事な祭祀の前に天皇の魂をその身体から離れないよう鎮めて、身体を活性化させるという目的を持ち、大きな祭りの下準備に位置付けられます。

物部神社の鎮魂祭もその祈願の対象を参列した人たちへと切り替えた形です。

そのため全国からその身体健康を祈願して大人数の方が参列し、割と広い拝殿がいっぱいになりました。

そして鎮魂祭ですが、石上神宮と連続で見ると、やはりその祭祀内容が少し異なっています。

これもどうやら三社ごとに流派があるようで
物部神社…物部・猿女の鎮魂法
石上神宮…物部の鎮魂法
彌彦神社…中臣の鎮魂法
と、物部神社の説明には書かれていました。

こうなると彌彦神社の鎮魂祭へ参列できなかったことが悔やまれます。ぜひ見比べてみたかった。

ちなみに鎮魂の儀自体は秘儀であるため社殿内を真っ暗にします。


さて、石見国の「石見」と名のつくもので有名なのは、1つは「石見銀山遺跡」もう1つは…

石見神楽ですね!!!



物部神社では鎮魂祭の直前に境内の舞台で石見神楽奉納が行われます。



今回は到着が遅くなってしまったため2つしか見ることができませんでしたが、動画撮ったんで載せときます。
「恵比寿」


「大蛇」




初めて見ましたが、どちらの神楽も太鼓などのリズムが荒々しく、それに伴う舞も迫力のあるものでした。

「大蛇」はいくつか分解して撮ったので、また順次ようつべ上げます。

そしてまた面白いのが、鎮魂祭中の祭典楽も石見神楽のお囃子なんです。

雅楽の演奏はよくありますが、それと違ったまた不思議な音色が祭典をまた違う形で彩っていました。

いかがでしたでしょうか。

とりあえずこれからは、みかん食べて風邪を予防し、年末年始を無事乗り越え、元気な姿で会いましょう。

まぁその前にクリスマスと忘年会だね。

同期たちよろしく。

それではまた次回お会いしましょう。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!