こんにちは~
出雲大社の系列の神社の巫女を経まして。
教派神道の神職の資格を習得した占い師、白川葵です
本日も、お忙しいところ、ご訪問ありがとうございます。
初めての方も、よろしくお願い致します。
今日は、菅原道真・崇徳院(すとくいん)と並んで日本三大怨霊とされる平将門と神田明神に関する記事です
平将門公といえば。
私は、以前に(十年位前です)将門公が祀られている東京や茨城のスポットをくまなく巡って。
将門公の波動を検証し。
将門公だけでなく、さまざまな怨霊のチャネリングを試みて
身体を壊しかけたという黒歴史()があるのですが
今回の記事は、チャネリングのことは封印して。
平将門と神田明神に関する史実を書きます。
神田明神は、平将門公がご祭神の神社として超有名ですが
神田明神で一番中央に祀られている神様は大黒様、二番手に祀られているのは恵比寿様。
将門公は、三番手に祀られています
現在の神田明神は、千代田区外神田にありますが。
元々は、大手町の現在の将門の首塚がある場所に建っていました
そして、そもそも将門の首塚はというと。
平将門は。
承平(しょうへい)5年(935年)の平氏の所領争いから近隣に波及し。
坂東(関東)一円を動乱の渦に巻き込んだ戦いの勝利者となり
関東王国を建てようと、「新皇(しんのう)」を名乗ろうとしたのですが。
朝廷側の連合軍に破れました
これは、天慶(てんぎょう)3年(940年)の世に言う、承平天慶(しょうへいてんぎょう)の乱です。
その首は、京都に運ばれ、さらし首にされました
伝説では。
将門の首は、胴を求めて東の空へ飛び。
力尽きて、今の首塚の場所に落ちたとされていますが
実際は、縁者が将門の首を現在の首塚の地に葬ったとされています。
首塚の傍らには社があり、そこのご祭神はオオムナチノミコト(=大黒様)でした
将門の死から360年ほど経過した、鎌倉末期の徳治2年(1307年)に、この地を訪れた時宗の真教上人が。
将門塚の傍らの荒れ果てた社を修復し、将門の霊を祀って「神田明神」と改称したそうで
これが、今の神田明神の起こりです。
ところが。
徳川家康が、江戸城創建の際。
家臣の屋敷を建てるのに、城の近くに神社があっては邪魔だと移転を命じ。
家康は、朝敵とされていた将門をあえて江戸の鎮守神と定め
神田明神を江戸城の鬼門に当たる現在の地に移して、広く崇敬させたのです
江戸時代の神田明神は、徳川家の信仰も篤かったのですが。
その江戸幕府が倒され、王政復古の世になると。
天皇家に反逆した人間を神として祀るとは何事だ、という批判が浴びせられるようになり
こうした中。
明治7年(1874年)に、明治天皇が突然、神田明神に参拝することになったのです。
明治天皇が、「反逆者」を祀る神社になぜ、わざわざ参拝に行ったのかは謎なのですが
これは、明治天皇は将門が祟りをなさないために挨拶に行ったのではと推測されています
ところが。
これに対して神社側では、「朝廷に反逆した平将門公の霊に御親拝いただくのは畏れ多い」とばかりに、「急遽、将門公の霊を摂社に移してしまった」のです
これ以来、神田明神のご祭神は
首塚の傍らの社のころから祀られていた大黒様と。
この年に、茨城間県の大洗(おおあらい)神社から勧請したスクナヒコノミコト(恵比寿様)ということになり。
将門公は、本殿の祭神から追い出されてしまったのです
けれども。
戦後になって。
皇国史観が拝され、歴史上の人物が再評価される中、将門を主人公としたNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」(海音寺潮五郎の「平将門」が原作)が放映されると、将門公を祭神に復帰への気運が高まり。
昭和59年(1987年)になって、将門公は、ようやく神田明神の神座に復帰しました
将門公は、約110年もの間、祭神からはずされていたのですよね
それでは、本日もお読みいただきありがとうございました。
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