わたしが初めてキュリー夫人の伝記を読んだのは、小学4年生のときだったと思います。図書館で借りた本なので現存しておらず、記憶に頼るしかありませんが、キュリー夫人はまず、自分の姉を大卒にするためにアルバイトをして学費を送り、その後、自分も大学に通ったといいます。この一事だけでも、彼女がいかに人並みはずれた素晴らしい才女だったかが、明白になりますよね!
マリ・キュリーは留学生であり、苦学生でした。昔から勉学に長けていたため、十代の頃から家庭教師のバイトをしていたマリ・キュリー。大学へ進学し勉学を続けたいという意思はあったけど、当時は「女性が大学になんて」という時代。残された選択肢は「パリ留学」だったのです。女性でも科学教育を受けることができる数少ない教育機関のソルボンヌ大学へ入学しました。
家庭教師で貯めたお金と微々たる実家からの仕送りだけで、苦学生ライフをスタートすることとなり、逸話によると、貧乏学生まっしぐらで、暖房代が払えなかったのか、冬の寒さをしのぐため家では持っている服すべてを着込んだり、勉強にのめり込みすぎて食べることを忘れ、空腹でぶっ倒れたりしたそうです。極貧学生生活を送っていたマリ・キュリー。時として、人の目も気にせず科学への執着ともいえる熱を傾けていた彼女は、かつてこう言ったそうです。
「人のことよりも、アイデアに好奇心をもて」
人との交流よりも科学へのアイデアを突き詰めた学生時代。結果、最優秀の成績で物理学の学位を取得し、大学を卒業しました。その後、人のことにも好奇心をもった模様。1894年にフランス人科学者のピエール・キュリーと出会う。キュリー夫人の「夫人」の所以が、彼です。二人は結婚し、仕事上のパートナーとしても放射性物質について共同研究。「ラジウム」を取り出すことに成功します。
1903年にノーベル物理学賞を受賞する天才科学者夫婦となりました。お金や豪華な暮らしより、なによりも研究に入れ込む物理オタクだった二人の実験室は、雨漏りする古びた倉庫だったといいます。
ノーベル賞夫婦として賞賛された彼女らですが、家庭でも娘イレーヌの成長と教育にも抜かりありませんでした。ですが、一見すると公私完璧だと思われていた人生にも、悲運が相次いで降りかかるのです。
1906年、ノーベル賞受賞の3年後、夫ピエールが荷馬車に轢かれ死去するという不幸がキュリー夫人を襲いかかります。しかし、残された娘を養いながら、夫のソルボンヌ大学理学部のポジションを受け継ぎフランス初の女性大学教授に就任する、という偉業を成し遂げました。
さらに彼女に立ちはだかったのが、“スキャンダル”。「キュリー夫人、妻子ある年下の科学者と不倫騒動」。未亡人となった40半ばのマリは、亡き夫の弟子で、旧知の仲だったポールと近しい関係となりました。研究熱心な彼に心を奪われ、妻子のあるポールと禁断の不倫。その状態が続くはずもなく、ポールの妻が、夫の机の引き出しにマリが書いた手紙を見つけたことで「別れないとマスコミにバラすから!!」と。
結局その手紙はマスコミの手にわたり、ビッグスキャンダルとして新聞の見出しを飾ることになってしまいました。2度目のノーベル賞受賞3日前の話です。
ノーベル化学賞では、ラジウムとポロニウムという二つの新元素の発見などが受賞理由です。世界中からバッシングを受け、心身ともに疲労困憊。
世間の冷たい目が刺さるなか、それでもノーベル賞授賞式には出席します。実は、裏には「批判なんて気にするな」とマリを擁護するアルベルト・アインシュタインの存在もあったのだそう。
「完璧というものに対して恐れはない。決して到達することはできないんだから」この発言は、研究において「完璧を突き詰めるがために、恐れをなしてはいけない」という意味でしょう。誰もが羨む地位と名声、偉業、私生活を手に入れたマリ・キュリーのような人生にも、完璧などあり得ませんでした。
「私たち夫婦のたのしみは、夜の実験室に入ることでした。そして、暗闇に弱々しく光る薬品の試験管やカプセルを眺める、美しい光景でした。まるで妖精の光のようで」マリの手記にはそう書かれていたといいます。この「暗闇に弱々しく光る薬品の試験管やカプセル」の正体は、研究対象であった放射性物質(放射性物質は光を放つ)。
それに、トリウムやウランなどの放射性物質も実験室にむき出しで置いたり、電灯がわりにベッドサイドに置いたり、サンプルをポケットに入れたりという無防備ぶり。それもそのはず、当時は放射性物質の危険性は認知されていなかったのですから。
第一世界大戦後に、やっと科学者のなかで放射線被曝の危険について知られはじめますが、マリ・キュリーは放射性物質を素手で取り扱いつづけたため、その手は傷だらけだったといいます。被曝しつつも(その認識があったかどうかはわからないが)研究を続行。その証拠に100年以上経ったいまでも、彼女の研究資料は放射線を出しているため、鉛(放射能を遮蔽する効果のある)製の箱に封印されたままです。防護服で身を守らないと触れないません。今後、1500年は放射性があるほどです。
図らずも自らの健康、寿命にリスクをあたえながら、研究を続け、66歳で再生不良性貧血という病にかかり、死去しました。放射線被曝が原因だといわれています。彼女の研究は現在のがん治療につながっているのです。科学の進歩に命を捧げたマリ・キュリーの信念を、この言葉で締めくくります。
「私は、科学のことをとてつもなく美しいと思う一人です。実験室にいる科学者は、単なるテクニシャンではありません。その科学者は目の前で見せられる自然の現象をおとぎ話のように目を輝かせて感動する子どもでもあるのです」
仙堂詩織のこれぞ逸品!
画像はPinterestより拝借しました。深謝します。
2021年4月19日 仙堂詩織