妊娠6ヶ月を過ぎたあたりから月日の流れが倍回しくらいになっていて、あっという間に8ヶ月ですって。

 

まだ名前も考え中だし、準備らしい準備はなにもできていない。

 

最近すごく思うのは、男の子でも女の子でも、とにかく夫そまりに似て欲しいということ。

 

私は子どもの頃からわりと気性も荒くて親にも反抗的で、外面を気にするタイプ、小学校くらいから友達と仲良くするのに必死だった思い出がある。

 

一方そまりは子どもの頃からおだやかで(本人いわく)小学校低学年くらいまでぼーっとしていたという話。友達に合わせるとかもあんまりなさそう。大人になったいまも怒ることはないし、人のためにあれやこれやするのを楽しめるやつである。

 

生まれ来る子よ、どうか、どうか、そまりに似てくれ。

 

そう話すとそまりは、いや、ぜったいしおちゃんに似た方が良いでしょ、まじめで几帳面で…とか言ってくれる。そういうところも含めて、きみに似た方が良いんだよなと思う。

 

でも、お互いがお互いに似て欲しいと思えるのは幸せです。そして結局、子にはどっちにも似ることなく我が道を行ってもらいたい。

 

 

もうしばらく前のことですが、コロナのワクチンを打ちました。
 
もともととっとと打っちゃいたい派だった私ですが、一妊婦として怖いと思う気持ちもわかる。それでも打とう、と思った理由を書いてみようと思います。
 
まずは妊娠関係なく、ワクチンそのものについて。
 
・夫そまり含め、理系研究者たちが打った、高齢の親を含め家族に打たせた。(そまりもだけれど、エビデンスにうるさい彼らが打つのだから、それなりに信頼できる意味あることなのだろうと。フランスのボスも早々にお母さんに打たせていたし)
・カリコのインタビューを読んでちょっと感銘を受けたのと、mRNAについてちょっと理解できた。(カリコ、現代のキュリー夫人かって感じでかっこいい。)
 
それから、妊娠中に打つことについて。
 
・産む前に死にたくない。(これに尽きる。)
そりゃ10年後20年後、自分やお腹の子にどんな影響がでるかわからないワクチンを打つのは不安である。けれど打たずに感染して産む前に死ぬことほど残念な話はない。(打っても無事に生まれてくることは何万、何十万もの前例がある。打たずに死ぬ例もたくさん前例がある。)
 
そして私には、川上未映子さんのエッセー『きみは赤ちゃん』で胸に刻んだ言葉がある。「赤ちゃんを産むのは完全に親側の身勝手である」みたいな内容の言葉。(もちろん人それぞれ事情はあるだろうし、テキサス州みたいに気づいたときにはもはや中絶できなかった、みたいなこともあるでしょう。←あの法律も馬鹿げてると、クリスチャンのわたしでも思う。)
 
でも、少なくとも私たちの場合、強制されて子どもを作ったわけでもなければ、聖母マリアみたいに突然受胎させられたわけでもないんだから、そもそも子どもを持つこと自体、私たちの意思があってこそのこと。それを神さまがゆるして、与えてくれた命。
 
「はじめから親のエゴなんだから、親が死んだら元も子もないな。」という言い訳があるので、そんなに迷うことなく、私は打ちました。これが論理的に筋がとおっているのかはちょっとよくわからないけれど。
 
そして、10年後20年後のワクチンのなにかしらの影響も心配だけど、それよりいまこれを書きながら食べているトルティーヤチップスの添加物を気にすべきだろうな、と自分でも思っています。
 
あと、毎日毎日消費しているプラスチック製品に、無駄遣いしている電気。マイクロプラスチックの問題や地球の気温が1度上がることのほうが恐ろしい。
 
話がずれた気もしますが、ワクチンのことを考えながら、お腹の子に将来「なんで産んだの?!」とか言って詰め寄られたときの答えまでいろいろ思い巡らしてしまいました。
 
「私たちが欲しかったから」と胸を張って言おう、と。私たちがあなたに会いたくて、私たちがあなたのいる人生のほうが楽しそうだと思ったから、はい、私たちのせいですよすみません、みたいな。
 

 

結局、なにが正解かわからないし、10日後には考えてることは変わっているかもしれませんが、と最後に書き残しておきます。

 

(写真は足が短くてかわいいミャウちゃん。)

 

今日から、流産の心配がなくなりました。


早産、死産の心配へと変わります。


妊娠21週6日と22週0日、1日の差なのに大きな差。

そんな仕組み、妊娠するまで知らなかったな。


たまたま、それは9月から10月への移り変わりの日で。たまたま、今日からそまりの仕事での身分も任期付きから常勤に変わります。


これまでわたしたち、フリーランス妻と任期付き夫というなんとも不安定な夫婦でしたが、これでローンとか組めるようになっちゃうのかな。


任期付きでもぜんぜん良かったっちゃ良かったけど。


◆◆◆


ときどき、ミャウを庭に出しがてら外でマタニティジャーナルをつける。


べべが出てきたらそのまま育児ジャーナルになるのに、ぜんぜんかわいくないしぶめジャーナル。


ほんとはモレスキンの黄色のベビージャーナルが欲しかったな。




なにか育児本でも読もうかなと思って図書館に行って手に取った『赤ちゃんの科学』。とてもおもしろかった。

人体の不思議、お産の歴史、その他いろいろ。

無痛分娩の恩恵を受けられるのはヴィクトリア女王のおかげとか、いまの一般的な出産の姿勢は覗き趣味だったルイ14世が広めたとか、実際の出産、育児には何の役にも立たない知識がつきました。

旅ってなんだったっけ…
 
そんな気分にすらなりつつあるパンデミック世界での生活2年目。
 
旅と言えば。行き先を決めて、スケジュールを決めて、いろいろ予約して、どこに行こう、何しよう、何食べようと考え、着ていく服、持っていくものを厳選してパッキング。
 
そして、一度出た旅には終わりがあって、慣れ親しんだ家に帰ってくる。わたしの場合は、それだから安心して旅ができる。
(世の中にはすべてを捨てて旅に出る人、出ざるをえなくなった人もいるけれど。。)
 
でもいま、わたしとそまりはどちらかというと、戻る場所のない旅の前って感じ。
 
たぶん、このまま順調に進めば、数ヶ月後にはほやほやの新生児がここにいて、わたしは仕事も家事もなにもかも忘れて、その小さな生き物の専属バトラーになっています。
 
数ヶ月後にはもう、この家はもとの家ではなくなっているし、わたしの体も心も、そまりとの関係も、ミャウの生活も、いまの状態に戻ることはきっと二度とない。こわい。笑
 
でももしかしたら、いまこの瞬間にお腹のなかで心臓を動かすのをやめているかもしれないし、ここ数ヶ月何度も口にしてきたように「どうなるかわかんないけどね」がまだ続くんですが。
 
と、ここまで書いて、いや、旅の前はわくわくばっかりだけど、旅の終わりの切なさの方が気持ち的に近いかも、という気がしてきた。
 
 
よくわからない気持ち。そんななかちゃっかり入手したファミリアの母子手帳入れ。