テネシー・ウィリアムズの後半生、能・狂言・歌舞伎の世界にぞっこんとなってしまった劇作家③ | 塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

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司法書士・行政書士・宅地建物取引士等の資格者として日常の業務や、業務上必要な外国語の習得、舞台役者としての活動など、幅広いジャンルをアップしていきます。

みなさま、引続き、星空こんばんは~~星空拍手

 

 

本日二度目のブログアップとなりますロケット

 

 

夜遅くのブログアップとなると思いますが、10月で絶筆となった、テネシー・ウィリアムズの後半生について、再度記述していきたいと思います。

 

なお、私の本業司法書士・行政書士業務でございますが、2024年1月より、司法書士部門だけなのですが、三重県四日市市にある大手事務所(公認会計士・税理士・社会保険労務士・行政書士・不動産等)に移転させていただく予定です。一先ず、司法書士部門ということで、機能していくこととなりそうです。

 

 

 

 

 

 

一先ず、これまで、このブログは趣味・生活全般(ペット君のお話し・声優・舞台俳優・声楽・ミュージカル等道楽含む)・138億年宇宙に基づく太陽系第三惑星のお話し・政治社会・経済など、訳も分からず、気分次第で書いてきましたが、2024年度からは、司法書士業務に関する業務関係の記事発信が主流になっていくかもしれません(お世話になります大手事務所の皆様のご意見をお聞きしなくてはなりません)。

 

 

 

さて、英語劇『Unstolled』公演を9月10日(日)に終え、テネシー・ウィリアムズについて、彼の後半生の作品とその後の人生を追っていこうと、このブログでブツブツつぶやき始めました。前回は、10月9日のブログ記事で終了しておりましたね。

 

 

現段階では、参考文献として、Johnson, S.E.(2014).『The influence of Japanese traditional performing arts on Tennessee Williams's late plays』の論考からピックアップし、細切れ状態でブログに投稿しております。

 

 

導入部分でありましたが、以下のように記述してました。

 

 

初期のテネシー・ウィリアムズの作品とは異なり、西洋(近代)リアリズム演劇(※)への流れに限界を感じたのか、後年のウィリアムズは東洋的思考、特に、能・狂言・歌舞伎の世界へと引き込まれていきます。

アリストテレス的演劇思考・演劇技術から乖離する演劇へと変化したといってはウィリアムズの後期作品の本質をついていないかもしれませんが、ダース塩ジーが参考にした文献ではこの点を問題にしています。

 

 

 

しかし、ダース塩川は、演劇講義でギリシャ演劇論中、アリストテレスの著作「詩学」という著作を深く学んでいないので、時間芸術である西洋古代演劇からの流れから逸脱するといってしまえばいいのか、このブログで、特にプラトン・アリストテレスが論じた古代ギリシア演劇論についても学習しつつ、どの時代・いつの時代でも、『演劇とは何か』と問われても、解答の得られないテーマですが、ブツブツと言いながら、進めていきたいと思います。

 

※西洋(近代)リアリズム演劇と書きましたが、よくわかりません。以下のように解説されていますが・・・。

19世紀以降の近代劇で、写実主義を志向した演劇のこと。

一般には19世紀ヨーロッパのリアリズム演劇のなかで,近代社会のもろもろの問題をとりあげ現状を批判的に描いた作品を指す。 〈社会問題劇〉または単に〈問題劇〉ともいう。…

 

 

と書いておりました。

 

以下、エリザベスジョンソン博士の論考から、今日は、能の美学について抜粋しました。

 

 

THE AESTHETICS OF NOH 

 

Looking at Tennessee Williams’s later plays through the perspective of their connection to noh requires a basic understanding of the art form as he encountered it: a foreigner coming from a distinct and distant culture with no formal training in the art. As such, this section will grapple with the aesthetic understanding of noh I experienced as a Westerner with limited education in the art form. While my fascination with the traditional performing arts of Japan has certainly led me to seek greater understanding through research, my initial impressions of the forms have remained largely intact. I suspect that this has to do with my experience of the art as foreigner. All of the Japanese traditional performing arts are strongly rooted in Japanese cultural knowledge and assumptions about audience cultural experience. In some ways, this means that no matter how much I research, investigate and learn about them, noh, kabuki, bunraku and any other traditional Japanese performing art will ultimately hit me differently than my fellow Japanese audience members. In this way, I believe my understanding of the art form’s aesthetics viscerally is connected with the experience Williams had as an audience member of noh and kabuki performances in 1959 and beyond. I can also see many of the elements I gleaned from my experience as a noh and kabuki audience member layered into the later plays of Williams. This section will focus on the aesthetics of noh, as observed by a foreign audience member, not a native practitioner, and the next section will focus on this same experience of kabuki. 

 

 

能の美学


テネシー・ウィリアムズの晩年の戯曲を、能との関連という観点から見るには、彼が出会った芸術形式を基本的に理解する必要がある。テネシー・ウィリアムズと能との関わりを見るには、彼が遭遇した能という芸術形式についての基本的な理解が必要である。このセクションでは、西洋人でありながら能に関する教育を受けていない私が経験した、能に対する美的理解について考察する。日本の伝統芸能に魅了された私は、研究を通してより深い理解を求めるようになったのは確かだが、その形式に対する私の最初の印象はほとんどそのまま残っている。これは、私が外国人として芸能を体験したことと関係があるのではないだろうか。日本の伝統芸能はどれも、日本の文化的知識や観客の文化的経験に対する前提に強く根ざしている。これはある意味で、能、歌舞伎、文楽をはじめとする日本の伝統芸能についていくら調べ、調査し、学んだとしても、最終的に私に突きつけられるものは、同じ日本人の観客とは異なるということを意味する。このように、私が芸能の美学を直感的に理解しているのは、ウィリアムズが1959年以降に能や歌舞伎の観客として経験したことと関係があると思う。また、能や歌舞伎の観客としての経験から得た要素の多くが、その後のウィリアムズの戯曲に重ねられているのを私は見ることができる。このセクションでは、ウィリアムズの観客として観察した能の美学に焦点を当てる。

 

(以上)

 

それでは、本日は、ここまでにさせていただきます。

 

また、これから、しばらく能と歌舞伎に関し、海外の方からの論考になりますが、記載してまいります。

 

 

それでは、おやすみなさいませ~~~クラッカー乙女のトキメキ流れ星流れ星花火