2019年12月3日、4日、舞台『坂本龍馬』の風景(その6)伏見寺田屋お龍さん裸体で頑張ったか? | 塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

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みなさま、こんばんは~~~ルンルンベルロゼワインワインコーヒーコーヒー星空

 

 

西暦2019年11月13日(水)、午後8時過ぎからのブログアップでございます~~~ロケット

 

 

昨日は都内浅草にて、幕末舞台劇『坂本龍馬』の第二幕第二場(長州下関白石正一郎邸)、第四場(京伏見寺田屋)の場面の稽古に入っておりました。

 

 

今日は、昼過ぎに、三重県四日市市にあるヨーダレオちゃん家に戻ってまいりました。

 

 

 

 

幕末の頃の、ネコちゃん、ワンちゃんは、どのように人間さまとお付き合いしていたのでしょうね。

 

美味しい、食事、食べることができた愛玩動物は少なかったでしょうね。。。

 

さて、今日は、お龍さん裸体で頑張ったのか(!?)というお話しでございます。

 

慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に薩摩藩士として宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行所の林肥後守忠交の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとしました。

 

有名なお話しですが、

 

文久2年4月23日(1862年5月21日)に薩摩藩の島津久光が、薩摩藩尊皇派を排除した事件を寺田屋事件(寺田屋騒動)』というそうで、

 

今日の坂本龍馬の寺田屋でのお話しは、寺田屋遭難』と言うらしいです。

 

 

当日の深夜は、以下の状況だったようです。

 

坂本龍馬や長州(長府藩士)の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ、いち早く気付いたお龍さんは風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり、

 

投宿していた龍馬らに危機を知らせた。

 

捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。

 

龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で、三吉は手槍を用いて防戦して、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。

 

しかし拳銃を持つ手を捕り方が刀で払おうとして、龍馬は手の親指(左右)を負傷。装弾ができなくなり、

 

槍の使い手、三吉慎蔵が必死に槍で応戦する間に、お龍さんが裏木戸の漬物槽をどかし、辛くも裏木戸から家屋を脱出して路地を走り、材木屋に隠れた。

 

三吉は切腹しようとしたが龍馬に止められて、伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。

 

薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。

 

すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。

 

翌日、薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を受けたが、拒否した。

 

というのが、大凡のあらましでございますね。

 

舞台では、お登勢さん(寺田屋女将)から、薩長同盟が成ると喜ぶ坂本龍馬等の酒盛りは私がしきるから、、お龍はお風呂にいきなさい、あんたでお風呂は仕舞いやからと言われ、お風呂に向かうお龍さん。

 

しばらくして、裸体同然の格好で、

 

『役人どす!役人どす!!!』

 

と叫びながら、飛び込んできます。。。メラメラ爆弾ドンッ

 

 

で、ここで、登場するのが、何と、伏見奉行所同心、見廻役人という肩書で倉田義弘(シオジー)が、ハゲ頭でお登勢と口論となり、口で負けて悔しがって、一旦、退散いたします。

 

本当に、女性に、口で勝ったことはございません。舞台でも、同じでございますね・・・・・叫び叫び叫び叫び叫び

 

ところで、幕府方は、この坂本龍馬の動向を、いち早く察知していたようですね。

 

『風聞には、薩長内応の周旋いたしおり候のものにて、その書類などもこれあり候よし・・・・』として、幕府方の情報収集能力の凄さにより、幕府転覆を目論む土佐脱藩浪士ということで、襲撃されたようです。

 

 

幕末の幕府諸機関の統治能力は相当落ち込んでいたのではないかなと思っていましたが、1866年~1867年にかけても、京都では京都守護職以下、京都所司代、京都見廻役など、反幕府勢力の治安の悪化を防ぐため、その機能は依然強固であったようです。

 

私、シオジーの母方のご先祖様が、京都所司代の役人を務めること数百年の歴史があったそうで(1600年代頃から1867年まで)、

 

母方の親戚から、蛤御門の変の際の御所内部の状況(宮廷の女官をされていたご先祖様がいたそうです)、反幕府勢力への取り締まりの事などをお聞きしたことがあります。

 

坂本龍馬さんは、幕府方機関に携わる者からすれば、国賊の最たるもの、現代の、テロリストのような扱いをしていたような言い方をされていました。

 

それと、当時は、坂本龍馬よりも、中岡慎太郎のほうが有名だったみたいです(!?)。

 

 

なお、同じ槍の修行をしている者として、龍馬を助けた、槍の名人三吉慎蔵先輩について資料を掲載させていただきます。

※長府藩士・三吉慎蔵

天保2年(1831年)、長府藩の今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男として生まれる。

 

天保8年(1837年)、田辺惣左衛門の養子となり、藩校敬業館に入学。天保10年(1839年)、諸武芸師範に入門。

 

嘉永2年(1849年)、長州藩校明倫館に入学。宝蔵院流槍術に長じ、安政2年(1855年)には長州藩師範・小幡源右衛門より免許皆伝を受ける。

 

安政4年(1857年)、長府藩士・三吉十蔵の養子となり、藩主・毛利元周の近習扈従役として江戸に随従している。

 

文久3年(1863年)、下関の外国船砲撃事件により大砲鋳造掛締方・精兵隊諸事肝煎に就任。

 

慶応2年(1866年)、長府藩士・印藤肇の仲介で坂本龍馬の知遇を得る。長府藩より京都の情勢を探るよう命じられ、薩長同盟を取り纏めつつあった龍馬と共に下関を出発。伏見・寺田屋に入った。

 

 

ということで、槍の名人三吉慎蔵先輩のおかげで、坂本龍馬さんも九死に一生を得たということになった夜でした。

 

なお、舞台では、三吉慎蔵先輩は登場いたしません。その代わり、別の長州藩の方が寺田屋にいたということになっております。

 

シオジー、出来たら、

 

三吉慎蔵先輩と寺田屋で、槍の見廻り組山本(倉田義弘)との槍合わせを舞台で演じたかったのですが、坂本龍馬さんに鉄砲で撃たれるシーンになるかもしれません。

 

残念です。

 

これから、闇夜の中、剣術、槍、薙刀、空手の練習にいってまいります。

 

 

 

それでは、

 

みなさま、

 

おやすみなさいませ~~~~~赤ワイン花火黄色い花星バナナ