2019年12月3日、4日舞台『坂本龍馬』の風景(その5)近江屋【龍馬の死】数秒で事は終る。。。 | 塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

司法書士・行政書士・宅地建物取引士等の資格者として日常の業務や、業務上必要な外国語の習得、舞台役者としての活動など、幅広いジャンルをアップしていきます。

みなさま、こんにちは~~~晴れ!!ふんわりリボンハートドンッ

 

 

西暦2019年11月10日(日)、午後2時過ぎからのブログアップですアップ

 

 

舞台稽古も拍車がかかってきました、幕末時代劇公演『坂本龍馬』、12月3日(火)、4日(水)、

会場 渋谷区立文化総合センター大和田6階 伝承ホール、

 

 

11月22日(金)までは、抜き稽古中心となっております。

 

 

さて、今日は舞台『坂本龍馬』の風景(その5)として、わずか31歳11ヶ月でこの世を去った、坂本龍馬の最期、京、近江屋でのシーンを検証していきたいと思います。

 

 

 

 

 

記憶が定かではないのですが、以前、NHKの歴史番組で(歴史ヒストリアだったかな・・・!?)、坂本龍馬の最期を検証する内容のものがあり、暗殺当時のシミュレーションを、新陰流派の方が再現されていました。

 

 

雪崩れ込んで、ほぼ、数秒で坂本龍馬、中岡慎太郎は斬り伏せられるという結果でした。

 

そうですね、

 

21世紀の現代でも、新陰流の剣客3~4名で、接近戦という状況下、風邪をひいて油断をしている相手を当時の近江屋の真冬の暗闇の中、鋭い太刀を入れて斬り伏せるのに、4~6秒もあれば十分でしょう。

 

シオジーが以前学んだ、北辰一刀流宗家第五世、故小西重治郎先生は、

 

『先輩の坂本龍馬は、京の近江屋で、【間】を間違って殺られたんだよ。わずか、数秒の瞬間だったろう。君たちも、【間】というものを、とことん追求しなければならない。』

 

というような趣旨の事を言われていたのではないかと記憶してます。

 

さて、坂本龍馬暗殺には従来から諸説ありますね。

 

京都見廻組説、新撰組説、薩摩藩黒幕説、紀州藩説、土佐藩・後藤象二郎説、中岡慎太郎との相打ち説、陸援隊説 等々・・・

 

諸説ある中で、一番確立が高く、有名なのが、明治に入り今井信郎や渡辺篤ら、元見廻組員が自供をしている京都見廻組説。

 

2019年11月10日この時点では、京都所司代見廻組指名手配犯、坂本龍馬捕縛計画、結果的に殺害という場面を検証してまいります。

※1866年(慶応二年)1月、京伏見寺田屋で、宿改めの際、二人の伏見奉行所の捕り方を射殺しているので、幕府のお尋ね者として追跡されていました。

 

要するに指名手配犯ですね。坂本龍馬は。

 

捕縛・若しくは殺害を指図したのは京都見廻組の佐々木只三郎。

 

見廻組の中から選び抜いた抜刀隊を結成し、龍馬の宿舎である近江屋を襲撃しました。

 

龍馬を最初に斬ったのは見廻組隊士、

 

【桂早之助】

 

 

17歳で西岡是心流兵法、九箇条目録、及び兵法目録を授かり、剣術を買われて京都所司代同心から京都見廻組に編入。

 

二条城で、将軍の御前試合で一流の剣豪を相手に20人抜きを達成した剣豪であり、400人から成る見廻組みの中でも跳び抜けた剣の達人であったとのこと。

 

桂早之助が用いたのは、現在は途絶えている『西岡是真流』

 

龍馬を斬った刀:

⇒京都見廻組・桂早之助が坂本龍馬を殺害した際に用いたと伝えられる刀。長さ42cmの脇差。

 

 

 

 

暗殺時に生じたとされる刃こぼれが残っています。桂は西岡是心流を修め小太刀の達人として知られていましたが、鳥羽伏見の戦いで戦死。享年28歳。

 

現在この刀は京都の霊山歴史館に保管されています。

 

小太刀による剣術は、屋根が低い八畳間での戦闘で威力を発揮しました。

 

掛け軸には床から60センチという低さで血しぶきが付着しています。

 

この付着した血しぶきから、刺客による一太刀目の軌道が想定されます。

 

坂本龍馬は刺客を招き入れて、さほどの警戒もせず、部屋で座ったまま一太刀目を斬られた可能性が高いということのようです。

 

西岡是心流兵法については途絶えているらしいとのことで、よくわかりません。

 

 

 

 

 

 

 

新陰流派からすると、 丸箸ノ位ということなので、小太刀の形では「右は(この技は)」ということから、右手での小太刀の形を、桂早之助は鍛えぬいたということなのかもしれません。

 

坂本龍馬の前では、客人として振る舞い、小太刀を右側に置き、抜き打ちを想定させないように仕向け、その瞬間、鞘を回転させ、

 

龍馬の額を、桂側からすると左手で右から左へ抜き打ち、龍馬からすると、左の額から右へ、ほぼ15センチメートル斬りつけられたということのようです。

 

0.1~0.2秒の瞬間だったのでしょうか・・・・・???

 

 

 

 

 

 

以下は、従前から言われていた様相です。桂早之助の小太刀による場面でもなく、藤吉(とうきち)も二階で斬られたのではないという設定です。

 

 

慶応3年(1867)11月15日は、太陽暦では12月10日にあたります。朝から午後まで雨、後に曇りという寒い一日だったその夜。

 

京都河原町蛸薬師(たこやくし)下ルの醤油商・近江屋新助方の二階で、坂本龍馬は来訪した同じ土佐(現、高知県)の中岡慎太郎、岡本健三郎(おかもとけんざぶろう)と話をしていました。

 

二階には龍馬の家来・藤吉(とうきち)も同居しており、近所の書肆(しょし)菊屋(中岡の宿所)の倅(せがれ)・峰吉(みねきち)が、中岡に手紙を届けに来ていました。やがて龍馬が「軍鶏(しゃも)鍋が食べたい」と言うので、峰吉が近所の店に肉を買いに行き、一緒に岡本も辞去します。

 

その少し後、数名の武士が龍馬を訪ねて来ます。階下で取り次いだ藤吉が階段を上がると、背後からいきなり斬られて転倒。その物音に、藤吉と峰吉が遊んでいると勘違いした龍馬は「ほたえな(騒ぐな)」と叱りました。

 

 

直後、二人の武士が龍馬と中岡のいる座敷に殺到。火鉢を挟んで座っていた龍馬と中岡に斬りつけ、龍馬は額を割られます。それでも龍馬は背後の床の間にある刀を取ろうとしますが、背を袈裟(けさ)斬りにされ、さらに三太刀目を鞘のまま刀で受けますが、敵の刀が再び頭部を斬り、昏倒。

 

 

中岡は刀を屏風の後ろにおいており、刀を抜くこともできずに鞘のままで防戦していました。しかし、最初の傷が深く、両手両足を斬られ、特に右手はほとんど切断されるほどであったとされています。

 

さらに、臀部を骨に達するほど斬られており、後頭部に重傷を負っています。

 

ほんの一瞬の、数秒の出来事でした。

 

刺客たちは二人が動かなくなるのを見届け、立ち去ります。

 

 

刺客たちが去ると、龍馬は意識を取り戻し、刀を灯火にかざし「残念残念」と言い、「慎太(石川)、慎太(石川)、手は利くか」と言った。中岡が「手は利く」と答えると、龍馬は六畳間のところに行き「新助、医者を呼べ」といった。

 

それからかすかな声で「慎太(石川)、わしゃあ、脳をやられた。もういかん」と言い、昏倒した中岡は痛みをこらえ、裏の物干しに出て家人を呼んだが返答がなく、屋根を伝って北隣の道具屋井筒屋嘉兵衛の家の屋根で人を呼んだが返答はなく、そのままそこにとどまった

 

さて、

 

舞台では、どのような設定となるか、現時点では定かではございません。

 

また、シオジー、倉田義弘もじっちゃんなので、現段階では、殺陣に入るのは若い役者さん達のようですので(もたもたするジジイとは速さがちがいますから)、

 

古流剣術、新陰流、北辰一刀流、英信流、その他古流流派で学んだ小太刀、抜刀術を舞台で披露させていただくことはないかと思われます。

 

多分、下関白石邸での長州藩士役で、帯刀して登場する場面と、見廻組の山本役で、京伏見寺田屋の宿改めのため登場する際に帯刀して登場するくらいで、

 

寺田屋の女将、お登勢さまの前で、瞬間の脅しの抜刀をするなど、模擬刀(殺陣刀)による抜刀自体が危険ということで、

 

演出家の先生から、舞台演劇では事故がないように、大人しい演技で迫力を醸し出せということを言われていましたので、

 

剣術道場などでの真剣での稽古、間違えば血を流してしまうというようなことは、舞台ではありえないです。

 

では、今日は、ここまでにさせていただきます。

 

また、近江屋の場面については、後日、検討させていただきます。

 

 

みなさま、

 

おげんきで~~~~~リボンラブラブワインさくらんぼコーヒーコーヒーキラキラ