2019年12月3日、4日、舞台『坂本龍馬』の風景(その4)長崎の料亭『清風亭』 | 塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

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みなさま、こんばんは~~~コーヒー音譜星ラブラブ乙女のトキメキ

 

 

西暦2019年11月4日(月)、午後10時過ぎからのブログアップですロケット叫び

 

 

今日は、2019年12月3日、4日、舞台『坂本龍馬』の風景(その4)としまして、舞台は長崎の料亭の場面となります。

 

 

先回、10月27日(日)付けブログ、(その2)でふれましたように、龍馬が勝 海舟とともに設立に尽力した神戸海軍操練所では、

幕臣の子弟たちが操練所の寄宿舎で、坂本龍馬ら旧塾生と諸藩出身者が海軍塾に居住し、練習に励むことになりました。

 

しかし、出自を問わずに全国から高い志を持った若者たちが集まってはいたのですが、各藩からの脱藩者も抱えていたことから、

 

幕府から海軍操練所は”激徒の巣”との疑いをかけられ、勝海舟は軍艦奉行の職を解かれ、1865年3月海軍操練所は廃止されることになりました。

 

失望する龍馬たち。

 

それを心配した海舟は、薩摩藩の家老・小松帯刀に龍馬たちの身を託し、慶応元年(1865)、龍馬は薩摩藩船で帯刀や西郷隆盛らとともに薩摩へ向かいました。

 

龍馬は、薩摩では海舟直伝の海軍技術を薩摩藩士に伝えたとのことです。

 

翌年、龍馬は長崎を訪れ、薩摩藩をスポンサーにして長崎で貿易を行う日本初の商社『亀山社中』を立ち上げます。

 

給料はひと月一律3両2分薩摩藩から支給されたようです。社長の龍馬も同じ3両2分。

 

当時の 1 両は今の 3 ~ 4 万ぐらいとのことで、 13~ 14 万円。新撰組も同じ給料のようですが出世する と昇給し、近藤勇や土方歳三らは 40 ~ 50 両というから 200万近い給料。一律の龍馬の組織である商社とは大変な差ですね。 

 

この給与を手にしたとき伊達小次郎(のちの陸奥宗光)は「安すぎる。紀州藩では若い留学生でさえ、手当ては八両から十両が普通である。これではまるでサンピン以下ではないか」と不満をもらしたといわれています。

 

しかし、1両2分もあれば家族5人が暮らせた時代に、懐具合のいい龍馬たちは、長崎きっての花街・丸山へよくくり出していたようです。

 

(※なお、龍馬が初めて長崎を訪れたのは、元治元年(1864)のことといわれています。龍馬の長崎入りは、その師匠、勝 海舟に伴われてのこととされています。)

 

 

伊良林にある亀山社中跡は、亀山社中記念館として公開中
 

 

さて、亀山社中、初の大仕事は、薩摩藩の名義で長崎のスコットランド商人・グラバーから武器や軍艦・ユニオン号を購入し、長州藩へ送るということでした。

 

当時、幕末の権力争いなどから、薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だったのですが、亀山社中のこの大仕事のおかげで、のちに幕府を打倒する一大勢力となる『薩長同盟』が結ばれることになります。

 

中古のゲー ベル銃 3 千挺、ピストル 4 千 3 百挺他合計 1 万 6 千挺の銃、9 万 2 千 4 百両で購入 。約 35 億円。今も昔も軍備には金がかかりますね。 

 

しかし、長州は大喜び。薩摩との取引きでは、米の確保に困って いた薩摩に代金の代りに米を渡しました。こうして、険悪だった両藩の関係修復が進んでいきます。

 

龍馬は貿易や商売によって、薩摩藩と長州藩を和解させるという離れ業をやってのけることになります。

 

 

さて、日本初の商社「亀山社中」を立ち上げ、順風満帆な長崎での船出を飾った龍馬ですが、やがて試練が訪れます。その危機を救ったのが、土佐藩参政の後藤象二郎でした。

 

後藤象二郎(1838~97)

※長崎に土佐商会を設置した土佐藩参政。龍馬と和解後に海援隊を支援し、龍馬の「船中八策」をもとに大政奉還を藩主に建白した

のが、土佐藩参政の後藤象二郎でした。

 

 

 

身分制度が厳しかった土佐藩では、下級武士(長宗我部氏の旧家臣・郷士)の龍馬と、上級武士の象二郎は、土佐の地では同郷人とはいえ交わることはできなかったと思えます。そのような二人を結びつけたのが長崎でした。

 

慶応3年(1867)1月頃、幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩士・溝渕広之丞と松井周助の斡旋により、土佐藩参政・後藤象二郎と会談を行った「清風亭」という料亭がありました。

 

土佐藩大監察として武市瑞山(武市半平太)を党主とする土佐勤王党の断罪を行った象二郎と龍馬は、仇敵同士でしたが、この会談で意気投合。

 

以後共同して政治活動にまい進することを約束し、同年4月には海援隊が成立、10月には大政奉還が実現しました。

 

このことから、この「清風亭会談」は幕末史上の重要な出来事のひとつに挙げられています。

 

なお、この会談には、後藤象二郎の計らいで、長崎の芸妓・お元も同席していたといわれています。また、お元の名は、大江卓の追憶談「長崎見聞」に龍馬馴染みの芸妓として記されています。
 

舞台でも、土佐藩仕置家老(しおきがろう)後藤象二郎、坂本龍馬、お元と芸者たちとの酒宴の場面となります。

 

 

また、清風亭は、土佐藩士・佐々木高行らの日記にもしばしば登場しており、土佐藩とは関係深い料亭でした。

 

(※清風亭とは、幕末当時、この長崎で、日本茶の輸出で大財産を築いた大浦お慶という女傑所有の建物です。
坂本龍馬とも親交があったことから、その邸のひとつの清風亭で会見を行ったようです。)

 

 

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さて、慶応3(1867)年4月、「亀山社中」は、龍馬が脱藩罪を許されたため土佐藩が引継ぎ、場所も隊員もそのままで「海援隊」となりました。

 

龍馬が隊長となり、海援隊約規を決め、船印として「赤白赤」の旗も決めました。この旗は、「二曳(にびき)」と呼ばれました。海援隊の会計を担当していた岩崎弥太郎は、のちに「三菱」の基礎を作り、その船舶部門が現在の「日本郵船」につながり、海援隊と同じ白地に2本の赤線が社のマークであり、やはり「二曳」と呼ばれているそうです。

 

 

それでは、

 

今日は、これまでに。

 

みなさま、

 

おやすみなさいませ~~~コーヒー赤ワインぶどうベルロゼワインルンルン流れ星