みなさま、こんばんは~~~
西暦2019年1月19日(土)、夜9時前からのブログアップでございます。
本日は、昨年12月初旬に他界した身内の49日法要の日でございました。
仏教宗派は、真宗大谷派でしたので、曹洞宗のシオジー家とは異なりますが、ご住職様の読経の際、『南無阿弥陀佛』を何度も何度も繰り返されました。そして、私も『南無阿弥陀佛』の意味を考えながら唱えておりました。
(参考までに)
※親鸞聖人が著した浄土真宗の根本聖典である『教行信証』の冒頭に、釈尊様の出世本懐の経である『大無量寿経』が「真実の教」であるとし、阿弥陀如来(以降「如来」)の本願(四十八願)と、本願によって与えられる名号「南無阿弥陀佛」を浄土門の真実の教え「浄土真宗」であると示し、この教えが「本願を信じ念仏申さば仏になる」という歎異抄の一節で端的に示されています。
※南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏様に帰依します、阿弥陀仏様を信じますという意味。南無は、namas(礼拝、あいさつ、お辞儀)が変化してnamoとなったもので、意味も礼拝が転じて、帰依するという意味に捉えられています。
阿弥陀は、別名のアミターバ(無量の光明)とアミターユス(無量の寿命)の無量の部分アミターを漢字に置き換えたもの。
阿弥陀仏は、自分の名を称える者を浄土に往生させるという本願を誓って、人々が積むべき功徳を完成したうえで、自分の名前を呼ぶものを浄土に行かせるということです。
※親鸞聖人は門徒数1000万人以上の日本最大の仏教宗派浄土真宗の開祖として知られていますが、親鸞聖人自体は浄土宗の法然に師事しており、親鸞の没後、明治に至って浄土真宗と名付けられています。それも法然の「浄土を顕かにする真実の教え」に由来しています。戦国時代や江戸時代には、「一向宗」「門徒宗」などと呼ばれていました。
しばらく、親鸞先生のことを考えておりましたら、五木寛之先生が上梓(じようし)された『親鸞』へと思いはいたりました。
そして、法要後、ご住職様との茶話会が20分ほどもたれ、その際に、親鸞先生のお話と、釈尊様の生きることについての考え方、仏教の本質的側面のお話しをいただくことになりました。
生きることの苦しさ、苦の人生についてどう考えるか。人は言葉で会話をすることができるが、言葉で話せば話すほど、混乱、迷いが生じてしまう状態とはどういうことなのか()
言葉・言語なしでも、この137億年宇宙の生命体は、与えられた生を見事に全うすることができるのではないかとする矛盾。釈尊様はそこのところをどう考えていたのかというお話をなされました。
ここで、釈尊様が説かれた、『苦の人生をいかに生きるか』について、次のようなコラムがネット上にありましたので、引用させていただきます。
釈尊様は確かに「この世は苦である」といわれましたが、亡くなる前には「この世は美しい。人間の命は甘美なものだ。」といわれていました。
これは「苦であるがゆえに、そこに美しいものが生まれてくる」という釈尊様のひとつの悟りであったように思われます。
涅槃へ至る八つの道筋を指し示した「八正道」煩悩を消して真実の人生を生きるための方法ということから出てきたのが、先にふれた四諦であり、また八正道といった考え方です。
ブッダの亡くなったあと、原始仏教が大乗仏教から生まれた六波羅蜜という考え方も含めていいでしょう。
在家信者が守るべきものとされた五戒などもそうでしょう。
五戒とは
- 不殺生戒(ふせっしょうかい) 生き物をみだりに殺してはならない。
- 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗みを犯してはならない。
- 不邪淫戒(ふじゃいんかい) 道ならぬ邪淫を犯してはならない。
- 不妄語戒(ふもうごかい) 嘘をついてはならない。
- 不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲んではならない。
の五つですが、これらを生活の中で習慣化して実践することが大事だという具体的な戒律です。
また釈尊様は精神を統一して雑念を払い、禅定の境地に入ることを説き、さらに日常生活の中で身につけていく智慧の重要性を説いています。
この戒律と精神統一と智慧を仏教では「戒・定・慧の三学」と呼んでいるようですが、修行によってこの三つを身につけることで人間は「諸々の汚れから完全に解脱する」ということになります。
というような解説でした。
そうですね、ご住職様も、生きることは苦であるけれども、そこには仏陀様が言われたように、この宇宙世界の美しさ、生命というものの素晴らしさを言われておりました。
苦しい日々が続きますが、この137億年宇宙以外の500億年宇宙、1000億年宇宙でも、生命体は、苦しいいけれど、甘美な生命の瞬間を通過しているかもしれません。
それでは、
おやすみなさいませ~~~~~
親鸞聖人の御生涯