「後三年合戦金沢資料館―秋田県横手市―」の展示パネルは、「前九年の役―前九年合戦―」当時の清原家当主「清原光頼(みつより)」とその子「清原頼遠(よりとお)」について次のように解説しております。

 

―引用―

【清原光頼(きよはらのみつより)】

 現在の大鳥井山遺跡を本拠地とした清原家の当主。『陸奥話記』では、「出羽山北(でわせんぼく)の俘囚(ふしゅう)主」(横手盆地周辺の蝦夷(えみし)の頭目)と称された。

 前九年合戦の際、陸奥国(むつのくに)の安倍(あべ)氏に苦戦を強いられていた源頼義(みなもとのよりよし)からの再三の参戦依頼を受け入れた光頼は、弟の武則(たけのり)を陸奥に派遣して安倍氏を滅亡に追い込んだとされる。

 その出自については、元慶(がんぎょう)の乱の際に秋田城司として赴任した清原令望(きよはらのよしもち)と関係を持った豪族が成長したとの説もある。

 近年、奥州藤原氏の初代清衡の母方の祖母が、この光頼と兄姉(妹)であることが指摘された。

 清衡から見れば光頼は大叔父にあたり、大鳥井山遺跡と平泉の柳之御所遺跡との類似性は、このことに由来するのかもしれない。

 

【清原頼遠(きよはらのよりとお)】

 清原光頼の長子で、字(あざな)は大鳥山太郎(おおとりやまたろう)。現在の大鳥井山遺跡を本拠地とする。

 前九年合戦の際には、敵方の安倍良昭(あべのりょうしょう)や安倍正任(あべのまさとう)とその家族を大鳥山にかくまい、さらに、出羽国府軍に包囲されても彼らを守っていることから、安倍氏と清原氏は並々ならぬ関係にあったと考えられる。

 この時期に大鳥井山は規模が最も大きくなっている。後三年合戦に関わる文献に、大鳥山や頼遠についての記述は見られないが、藤原清衡が制作に関わったとされる『奥州後三年記』において、清衡が、自らの存在を故意に隠しているのではないかと推測されることから、清衡と血筋が近い頼遠や大鳥井山遺跡の記述がないのも納得できる。

 

 清原光頼は安倍氏討伐に乗り気ではなかったようです。光頼の長子「大鳥山太郎頼遠」が安倍良昭や安倍正任一家を匿っていたとのことですが、陸奥守に参戦を懇願されてしまった以上無碍にもできず、弟の武則を向かわせたといったところでしょうか。

 彼らの本拠については、国史跡指定の「大鳥井山遺跡―秋田県横手市―」が比定されており、頼遠の字名が「大鳥山太郎」であったことはそれを証左するものですが、彼らの本拠とあらば、すなわち出羽清原宗家の本拠であった可能性もあります。にもかかわらず、「後三年の役」に関わる文献にはその館のことや頼遠についての記述が見られないというのです。

 そのことについて資料館の展示パネルは「清衡が、自らの存在を故意に隠しているのではないかと推測される」としているわけですが、さすれば、清衡は何故自らの存在を故意に隠そうとしていたのでしょうか。

 ひとつ思い当ることがあります。清原家内の相克に勝ち抜いた清衡は、おそらく対朝廷外交の都合上、実父「亘理権太夫藤原経清」の姓である「藤原」に改称したわけですが、実は生母の再嫁した「清原武貞」が本当の父であった可能性もあります―拙記事:奥州藤原氏初代清衡出生の秘密 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。清衡はそれを示唆しかねない情報の一切を隠していたのではないでしょうか。

 

大鳥井山遺跡

 

 いずれ、「後三年の役」以降の「大鳥山系清原氏―光頼・頼遠―」周辺情報が消滅している謎について、以下の可能性が指摘されていることを同資料館の学芸員が教えてくれました。

 

1、光頼系清原氏と武則系清原氏は本来別系統・別氏族であった可能性

2、武則が中央から陸奥国に赴任してきた官人で光頼の妹婿であった可能性

3、武則が真衡養子成衡と同じく海道平氏からの養子であった可能性

 

 なるほどいずれも腑に落ちる内容です。出羽清原氏は、天武天皇の第三皇子「舎人(とねり)親王」系譜で「元慶の乱(878~879)」の出羽國軍制再建に関わった「秋田城城司正六位上行左衛門少尉兼権掾 清原真人令望(よしもち)」なりその子孫が土着したものと伝わるわけですが、その一方で令望に臣従した現地有力者―キミコ・キミコベ等―が「清原真人(まひと)」を称するようになって出羽清原氏が発祥したとも考えられていることについては先に触れました。キミコベか否かはさておき、光頼と武則が別系統、ないし全く異なる氏族であった可能性はかなり高いように思えます。

 学芸員によれば、成衡はもちろん、その養父真衡自身にも平氏からの養子説があり、さらにその祖父武則についても「平安忠」の子である旨が「桓武平氏諸流系図」などにみえることから、もともとは清原氏ではなく平氏出身であり、中央から秋田城か出羽国に派遣されてきた官人で、光頼の妹婿となって清原姓を名乗っていたのではないかという説があるというのです。

 

 

 あらためて考えてみると、奥州藤原初代清衡以降、歴代の名前に受け継がれた「衡(ひら)」の文字は、そもそも清原家内、とりわけ海道平氏に関わりの深そうな人物に多いことに気付きます。海道平氏から「真衡」の養子に入った「成衡」はもちろん、真衡自身も前述のとおり平氏からの養子説があるといいます。

 さらに、金沢柵の籠城戦で八幡太郎義家に再三降伏を申し入れるも受け入れられず処刑された「武衡」についても「平武衡」と表記されているケースのある旨が前述展示パネルにあり、しかも横手市の観光パンフレット『後三年合戦と横手の歴史』所載の系図では武衡の脇に「金沢柵 陸奥国磐城郡 将軍三郎」と補記されております。

 また、安倍頼時の娘―清衡の母系叔母―と結ばれていたがために陸奥守源頼義に嫌疑をかけられて殺された「平永衡―伊具十郎―」にも「衡」の一文字がありました。

 なにやら「衡(ひら)」が同音異字の「平(たいら・ひら)」を示唆したものにも思えてきます。

 その一方で、「海道―茨城・福島・宮城の太平洋沿岸―」という側面からはむしろ「石城(いわき)國造家」の流れという可能性も浮上してくるように思えております。

 太田亮は『姓氏家系大辞典(角川書店)』の「石城(イハキ)」條「桓武平氏惟茂流」の項で、「桓武平姓常陸大掾の一族なりと云へど、其の系・異類頗る多く、疑はしき點多ければ、或は多臣姓・或は凡河内流磐城臣・即ち石城國造の後にあらざるかと考えられる」と解説しており、清原系図に「武則―武貞―眞衡(海道小太郎)―成衡(同小太郎、寛平権守安忠子、源頼義婿也)」とあることに触れ、「而して磐城系圖に磐城氏を安忠の後裔とし、且つ岩城氏は海道氏の勢力を繼承せし事も想像するに難からざれば、早く既に平姓を冒せし事は史實なるべきか」と、その実は石城國造家の裔という推測をしております。

 福島県いわき市の都心地名は「平(たいら)」であり、JR「いわき駅」の名称も平成六(1994)年までは「平(たいら)駅」でありました。平地区の地名は「平泉―岩手県―」の「平」に因んでいるという巷説もあるほど「いわき」には奥州藤原氏の残り香があります。一帯は奥州藤原氏の娘「徳姫―徳尼―」が嫁いだ「岩城(いわき)家」の本拠であり、その縁の深いことは平泉の寺院文化から影響を受けたとされる「白水阿弥陀堂」の存在からも窺われます。

 

白水阿弥陀堂―福島県いわき市―

 

 陸奥國分荘玉手崎―宮城県仙台市―周辺に伝わる「小萩尼」なり「徳姫―徳尼―」なり「萩姫」といった奥州藤原系尼僧流離譚の一系にも「平泉」のみならず「石城」から流れてきた云々のものがありました―拙記事:泉と清水と白水と―その3― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)上遠野地区と白水阿弥陀堂 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 それらの流離譚と密接な各天神社由緒にも海道平氏を示唆する人物名が散見されますが、関係あるのかもしれません―拙記事:榴岡天満宮系天神社伝承を見較べる | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―

 ともあれ、奥州藤原氏は清原氏の消滅と入れ替わりで発祥したわけですから、清原家と海道エリアとの縁が奥州藤原氏にも受け継がれたのでしょう。

 いえ、そもそも陸奥安倍家が石城國造家の同系氏族と考えられる―宝賀寿男さん『塩の神様とその源流』―ことを鑑みるならば、もしかしたら安倍討伐に消極的だった「大鳥山系清原氏―光頼・頼遠―」の祖自体も安倍氏であった可能性があります。前述資料館の展示パネルは「安倍氏と清原氏は並々ならぬ関係にあったと考えられる」としておりますが、これは何も大鳥山太郎光頼の姉(妹)が安倍頼良―後に頼時に改名―に嫁いだことから始まったものでもないように思えます。

 何を隠そう、「大鳥山系清原氏―光頼・頼遠―」が「鹽竈(しおがま)大神」の神裔であったことを示唆する伝承の存在を最近になって知りました。

 たびたび触れているとおり、中世以前の鹽竈神奉斎氏族は「左宮一禰宜安太夫家」の系譜、すなわち「安倍氏」であったものと私は考えております―拙記事:鹽竈神社と鼻節(はなぶし)神社:後編 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 宝賀寿男さんは『塩の神様とその源流』と題した論考で陸奥安倍氏を石城國造家の流れと推測し、鹽竈神が本来石城國造家の祀る神であった可能性について論じておりますが、たしかに鹽竈神社周辺にも「石城」の気配はあります―拙記事:宮城郡の磐城郷 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―。

 前述の大鳥山系清原氏の鹽竈神裔伝承については別稿を設けてあらためて展開するつもりですが、もしかしたら出羽清原氏とは、「清原眞人令望」の血をひく男子に娘を嫁がせた「海道平氏―石城國造系?―」、「陸奥安倍氏」、「吉彦氏―秋田物部家?―」等の子から合議制で当主の決まる一族で、そのこじれた結果が「後三年の役」だったのではないでしょうか。