福島県いわき市の「白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)」は、奥州藤原初代清衡の女とも二代基衡の女とも伝わる「徳尼―徳姫―」が、夫「岩城則道―行隆(?)―」を弔うために平泉の金色堂を模して建立したと伝わっており、『磐城風土記』によれば、「白水」は平泉の「泉」を分けたもので、岩城氏の本拠たる「平(たいら)―福島県いわき市―」の地名も「平泉」の「平」から借りたものであると国人が伝えていたようです。
 「平」はむしろ夫岩城氏の本姓とも言われる常陸平氏の「平」ではないか、と私などは思うのですが、いずれにせよ奥州藤原氏の女が、生家にとって最も大切な金色堂を摸した阿弥陀堂に「白水」の言霊を用いていたことに注目したいと考えます。
 この白水阿弥陀堂と國分荘玉手崎の小萩伝説とのつながりに関して、藤原相之助は次のように語っております。

 

 「~物見ヶ岡の東北、八乙女の尼澤といふところには、寺のあつた址があり、布目、蓆目の古瓦などが多く出ます。これ等の寺には鎌倉以降に殖えた下げ尼(長髪尼)などが多く住み、阿彌陀如来の功徳や、観音菩薩の霊験を織り入れた小萩物語を歌ひつゝ諸所を勸化して廻ったらしいからです。そして之は岩城の白水阿彌陀の徳尼御前の縁故を引くものであり、前身は平泉の貴女だつたと云はれるものもあつて、その歌つた物語から、小萩尼の名となつて傳はつて来たものであらうと思はれます」

 

 氏は、『吾妻鏡』にある「物見ヶ岡」を「瞑想の松―榴岡天満宮の旧地―」や「仙台東照宮」の丘陵地一帯と考え、同時にこれを古(いにしえ)の階上(しなのえ)郡衙の址と考えているわけですが、それはともかく、その東北―北東―「八乙女の尼澤」に徳尼御前の縁故を引く尼らが多く住み、彼女らが小萩伝説の一つの発信源となっていたと考えていたようです。
 氏がそう考える論拠は今一つ明瞭ではないものの、おそらく「白水荘―小萩塚近く:青葉区台原―」の「白水稲荷」の別当がにじり書きにしたという文書に拠るものと思われます。この文書は、首尾は貫通しているものの、破壊・脱落・混合が激しく元の姿が偲ばれないほどのものであったようですが、私にとって興味深いキーワードが随所にちりばめられております。
 以下これを『(仮)白水稲荷メモ』とでも呼んでおこうと思いますが、氏は、これを加美郡『清水寺文書』由来の小萩伝説とは系統の異なる小萩伝説と考えております。
 『(仮)白水稲荷メモ』には、小萩らしき人物「萩姫」について「平治元年、泉の守の二女萩姫」とあるようで、氏はこの「泉の守」を「忠衡のつもりかもしれません」としておりました。私も賛成します。
 『清水寺文書』由来の小萩は忠衡の娘の乳母でしたが、この『(仮)白水稲荷メモ』由来の萩姫―小萩(?)―は忠衡の娘その人―安養院(?)―ということになります。
 この萩姫の乳母の在所が「和泉ヶ岳の麓の金畠」であったらしく、姫はそこで育ったようです。
 乳母については、名も知れず、その後の活動も不明のようですが、いずれここに、泉ヶ岳と和泉三郎忠衡のつながりが推察されます。
 「和泉三郎」の「和泉」は、平泉の「和泉ヶ城―安倍氏時代の琵琶柵―」に因むとされておりますが、幼少の萩姫が仰ぎ見ただろう「泉ヶ岳」はその「和泉三郎」に因む山名なのか、あるいはその逆で、そもそも泉ヶ岳になんらかの強い縁故があった忠衡が「和泉三郎」と呼ばれることとなり、その和泉三郎の居城ということで「琵琶柵」が「和泉ヶ城」と呼ばれるようになった可能性もあろうかと思われます。
 さて、もうひとつの小萩伝説の内容はこうです。
 「泉ヶ岳」に育った「萩姫」は、巡礼の最中「常陸(ひたち)」と「石城(いわき)」の境で山賊の襲撃にあい、小船で沖へ流されたものの、観音菩薩の加護により、「閖上濱」に漂着したようです。
 その後「露なしの里」での野宿などを経て、最終的には「白水」に至り、阿弥陀仏や観音菩薩を信奉して寺や堂を建てて終わったとのことです。
 出処が『白水稲荷メモ』であるわけですから、「白水」は当然「白水稲荷」がある「白水荘―青葉区台原地内―」であり、このあたりに「小萩塚」もあるわけですが、「露なしの里」がどこを指すのかは明確には定められません。現在の小松島小学校周辺から福澤神社あたりが往昔「露なしの里」と呼ばれていたので、そこであろうと考えるのが妥当であろうとは思います。いみじくも、そこは小萩の居住地と伝わるエリアでもあります。
 「常陸」「石城―磐城―」の境のあたりには、実際に「泉町」や「金畑」という地名もあり、萩姫の故郷「和泉ヶ岳の麓の金畠」との因果を思わせます。
 いずれそのあたりが舞台となっているのは「白水阿弥陀堂」に近い故でしょうし、観音菩薩の加護で漂着した「閖上濱」は当然名取川の河口の「閖上(ゆりあげ)」のことでしょうから、なにやらこれらの伝説は閖上の十一面観音漂着伝説にも関係がありそうです。
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白水阿弥陀堂
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 さて、「八乙女の尼澤」とは現在の仙台市泉区南光台(なんこうだい)地内の通称「天ヶ沢(あまがさわ)団地」一帯のことと思われます。※注1
 昭和21年頃の国土地理院発行地図において、まだ自然な等高線の残る山野地型であった現在の南光台周辺は、昭和39年頃の同院発行地図では一変して、人工的な区画が図示されておりました。まばらながら計画的な区割りに基づく住宅建築がみられる造成同時進行中の体で、しかしながらまだ「南光台」の地名表記などなく、そこには「天ヶ“丘”」の文字がありました。
 「天ヶ丘(あまがおか)」なる地名には聞き覚えがありませんが、少なくとも、昭和40年代に当地が「天ヶ沢(あまがさわ)」と呼ばれていたことは個人的によく覚えております。実際に現地に赴くと、町内会の古い案内地図には未だに「南光台天ヶ沢行政区」なる表記が残っておりました。
 昭和8年頃の藤原相之助の論考での「尼」の表記が、少なくとも昭和39年頃には同じ訓の「天」に変質していたことがわかります。
 小萩伝説が天神社とも関係することを考えれば、特に「天」でも矛盾はない気もしますが、ここは「尼」でこそより本質に近い気が致します。
 現地は全体的に西北西向きの傾斜地であり、「泉ヶ岳」がよく見えます。これも決して偶然ではないでしょう。

 

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天ヶ沢から泉ヶ岳を望む

 

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 天ヶ沢から泉ヶ岳を眺めていてふと思った事がありました。
 白水阿弥陀堂や徳尼との縁故を鑑みるならば、もしかしたら「天ヶ沢―尼澤―」は本来「白水沢」と表記されていたのではなかろうか・・・。
 「白水阿弥陀堂」の「白水」は、「泉」を「白」+「水」に分けたものとのことですが、先に触れたとおり、「白水」は「あま」と読むことも出来ます。
 仮にそれが正しければ、泉区七北田の「白水沢(しらみずさわ)」も、「あまがさわ」と読むのが本来的なのかもしれません。
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 奥州藤原氏が滅亡した後、奥州政権中枢の女性たちは各々どのような末路を辿っていったのでしょうか。自害した者、戦利品として鎌倉軍に掠奪された者も少なからずいたことでしょうが、その屈辱を避けるべく、剃髪して尼となって逃れた者も多かったのでしょう。
 小萩伝説はそういった史実の投影であったのかもしれません。國分荘玉手崎、玉田横野にはそれを受け入れるなんらかの素地があったのだと思います。
 奥州藤原氏滅亡後、少なくとも次のような尼が当地周辺に流れ住んでいたと伝わっております。

 

 一説に和泉三郎忠衡の乳母とも伝わる「小萩」――。

 

 小萩に護衛された和泉三郎忠衡の女「安養院」――。

 

 奥州藤原政権下指折りの重臣「信夫荘司佐藤基晴」の妻――。

 

 平泉の貴女と言われる「白水阿弥陀堂」の尼たち――。

 

 いずれ劣らぬ平安奥州のファーストレディークラスの面々です。
 もしかしたら、「八乙女(やおとめ)」という地名もなんらかの関係があるのかもしれません。※注2
 八乙女は、尼というよりむしろ「巫女」を指すものではありますが、小萩伝説に寄り添うように「朝日巫女」が現れたことを考えると、あながち無関係にも思えません。
 朝日巫女は、朝日神社の真西に鎮座する熊野神社の巫女であったと伝わっております。
 なにしろ、奥州藤原氏は名取の熊野三社を外護していたといい、名取熊野那智社の「那智観音像」は閖上に漂着した十一面観音像だといいます。
 名取に代表される当地の熊野信仰は、鎌倉政権下にあっても尚存続されたわけですが、朝日巫女のような熊野の巫女たちは、平泉の尼たちの哀歌を口寄せしながらかつてのパトロン―奥州藤原氏―を鎮魂していたのではないでしょうか。
 あるいは、この巫女たちは平泉の尼たちの裔孫だったりはしないだろうか・・・、いろいろ想像は膨らむのですが、あわよくば、謎めく陸奥國分氏の始祖をこの女性たちに求めてみることも一つの方法論ではなかろうか・・・、などと考えたりもしております。
 
※注1 2024/5/17追記
「天ヶ沢」は「現:南光川」を指し、この場合、必ずしも南光台一丁目地内に限られた狭義の地名ではなく、流域全体で想定すべきのようです。
 
※注2 同
当該「八乙女」の地名は、江戸時代に実沢(さねざわ)―仙台市泉区実沢―の「八乙女舘」から当地に移住してきた陸奥國分一族「八乙女淡路守」に因むらしく、「尼澤―天ヶ沢―」の平泉系尼寺に由来したものではなさそうです。しかし、陸奥國分氏自体は平泉系巫女らが主家滅亡の悲劇を唄い広めた小萩系物語の聖地たる陸奥國分荘に忽然と顕れた謎の豪族なわけであり、現段階において、八乙女ブランドが小萩系物語に無関係であるものと断定することもまた妥当ではないと考えております。