平安中期の承平四(934)年頃、源順(みなもとのしたごう)によって撰進された『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)―俗に和名抄―』には、宮城郡の郷として次の十郷が挙げられております。

 赤瀬、磐城、科上、丸子、大村、白川、宮城、餘戸、多賀、柄屋

 これら各々が現在のどの地にあたるのかについては明確でありません。
 『宮城県史』なり、宮城郡エリアの各市町村誌を眺めてみても、各々に見解があり、確定的な説は存在せず、諸説紛糾しているという他はないのが実情です。
 『松島町誌』は、『続日本紀』の弘仁三(812)年九月の項に遠田郡の竹城公何某らが「高城連」の姓を賜った記述があることから、和名抄が成立した承平年間(931~938)当時に竹城郷―高城郷―が存在していなかったとはとうてい考えられないとして、「磐城郷」とあるのがそれではなかったか、と推測しております。
 すなわち、磐城郷は名取郡や桃生郡にもみられることから、「同名の郷が多かったために誤って記されるにいたったのではなかったろうか」というのです。
 しかし、それはいかがなものでしょう。
 多分に百科事典的な和名抄は、醍醐天皇の皇女勤子内親王に献じられたものであり、難読な語彙については丁重に万葉仮名で和訓が書き添えられているなど、実にきめ細やかな気遣いがなされております。それ故か“最古の漢和辞書”などとも評価されているほどのものなのです。
 然るに、こと表記において『松島町誌』が推測するようなケアレスミスなどはとうてい考え難いのではないか、と私は思います。
 では高城郷はなかったのか、と言われてしまうと困るのですが、もしかしたら、記述が憚られたものか、あるいは郷としての歴史自体はやはりもっと下るものか、などとは思います。
 何故なら、天孫降臨の司令神と同訓の“タカギ”という言霊が、他でもない天孫族たる天皇家の内親王に献じられた文物において、ぞんざいに扱われたはずはない、と思うからです。

 さて、磐城郷について考えてみたいと思います。
 『利府村誌』を継承する『利府町誌』は、磐城郷の比定として「かつて岩城の里と呼ばれた旧岩切村、今の仙台市岩切周辺の地であろう」としております。
 岩切という地名だけに、その韻からすんなりなじむ説ではありますが、地名からこじつけられた可能性も払拭しきれないので、出来れば「岩城の里」と呼ばれていたことを補強するなにかしらの史料なり情報が欲しいところではあります。
 また、邨岡良弼(むらおかりょうすけ)によって明治三十五年に刊行された『日本地理志料』は、驚くことに塩竃が磐城郷に属していたものとみたようです。
 その理由はわかりませんが、もしかしたらその可能性もあるか、という思いも、実は私の中にはあります。
 仮に鹽竈神社の始原が、本来左宮一禰宜安太夫家の氏神であったものとみるならば、周辺一帯が石城國造家と関わりの深かった可能性も生じ得ます。
 つまり、磐城郷が、石城―福島県いわき市―からの移民の居住区を意味する地名であったというならば、それはすなわち、多珂國造家の本家筋と思しき石城國造家を輩出したであろうオホ氏なり丈部(はせつかべ)氏―安倍氏―の居住区であった可能性も生じるものと思うからです。
 大胆な憶測を試みるならば、そもそも「冠川(かむりがわ)―七北田川(ななきたがわ)―」の流域を中心とした岩切から多賀城、利府、塩竃、七ヶ浜、松島湾をも包括する、いわゆる宮城郡一帯がその一族の本領であったのではないでしょうか。

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 以前にも語りましたが、もしかしたら多賀城のあたりには先住の彼らの拠点となるような城柵があって、多珂柵とでも呼ばれていたのかもしれません。
 石城國は多珂國から分立されて成立したと思われますが、多珂國造家は石城一族であったことが『常陸國風土記』から推察されます。※
 思うに、多珂國や多珂神社の名称にも冠されている「多珂」は、おそらく本来は石城一族の屋号的な言霊であったのでしょう。
 それが朝廷の進出にともない、王民化した陸奥の國府機能を併せ持つ「遠の朝廷」として生まれ変わることとなり、その際に平川南さんが説くところの中華思想上の好字“多賀”があてはめられたのではないでしょうか。

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※ 石城國は、広範な多珂國から分立されて成立した國ではあるようですが、『常陸國風土記』によれば、孝徳天皇の頃の多珂國造の名は「石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)」であり、多珂國造家の本拠はむしろ分立された石城側であったものと考えられます。拙記事「仙台平野の五世紀:その7―名取郡の多加(たか)神社―」参照