アキーム・オラジュワン

 

ロケッツを2度の優勝に導きMVPを受賞した歴代最高センターの1人。ドリームとの愛称で呼ばれ、ポストから繰り出される必殺ドリームシェイクは誰も止めることができなかった。滅多に感情の高ぶりを見せない、寡黙なリーダーである。

私生活では現役中の1996年に結婚し、2人の娘がいる。

 

213cm/115kg
ドラフト:ヒューストン・ロケッツ(1984年ドラフト1巡目全体1位)
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ドリームシェイクのプレー集


 
主な記録はこちらから

https://www.basketball-reference.com/players/m/maxweve01.html ;

 

ナイジェリアで生まれ、スポーツと出会う

 

ナイジェリアのラゴスという地区で生まれた。当時のラゴスは石油が豊富な地域にあり、急速に発展を遂げつつある場所だった。

オラジュワンの父はセメント業を営む労働者階級(中流階級)であり、8人兄弟の3番目の子供として生まれた。両親は非常に働き者でオラジュワンはそんな両親から成功の秘訣を学んだという。そんな両親の元、学業にも非常に熱心で英語以外にもフランス語、アラビア語、ナイジェリア語のヨルバ語とエキティ語を話すことが出来るようになった。

 

[参考]Legends profile: Hakeem Olajuwon

 

まず、オラジュワンがスポーツに目覚めたのはサッカーだった。ゴールキーパーとして活躍し、その時代にバランス性とフットワークを得たことでバスケットに取り組む際も、非常に経験が活かされたという。

 

オラジュワンは後にこのように話している。

「ドリームシェイクは、サッカーの動きを流用したものの1つだよ。3つの動きをすることでこれを得ることができるんだ。1つは相手をフェイントし謝った方向に意識させること、2つは、相手をフリーズさせる、そして3つはディフェンスを振り切り相手を置き去りにするんだ」

 

[参考]It Was All A Dream

 

そして15歳、高校生。ついにオラジュワンはバスケットボールを始めた。

その時に国際試合に出場し、相手チームのアメリカのレベルの高さに驚いたという。その出来事からオラジュワンはアメリカでプレーすることを目指しナイジェリアからアメリカのヒューストン大学(体育学部)へ進学した。

 

 

ヒューストン大学への進学

 

1年目は試練の時だった。すぐに頭角を現したわけではなかった。アメリカでの生活は非常に楽しく快適であったというが、チームでは赤シャツ、まだ暫定的にしかプレーすることを許されなかった。

 

活躍したいという思いの強さからか、オラジュワンはコーチにアドバイスを求めたという。その際に当時のスターであるモーゼス・マローンとのワークアウトをアドバイスされた。(マローンを紹介されるあたり将来を有望されていたのだとは思います)

 

モーゼス・マローンの指導、そして当時のコーチであるガイ・ルイスはオラジュワンのメンターとなり、恩師となったという。そのかいもあり、2年・3年とグングンとチームの中心選手として活躍することとなった。

 

2年目は先輩であるクライド・ドレクスラーと共にチームのコアメンバーの一人となった。

後にロケッツで再び、チームメイトとなる。

 

3年目はオラジュワンを中心としたチーム体制となり、NCAAチャンピオンにはなれなかったものの、大会のトーナメント・オブザ・イヤーに選出されるまでとなった。

 

「このヒューストン大学にいて、ロケッツにドラフトされたこと……それは夢の1欠片だった」

 

オラジュワンはそう語る。

 

 

ロケッツにドラフト指名、瞬く間にスターへ

 

ドラフト1位指名でロケッツに入団した。

新人ながらシーズン平均で20.6得点、11.9リバウンド、2.7ブロックを記録しオールスターにも選出された。

 

オラジュワンのデビュー戦のハイライト、マブス戦に勝利し24得点9リバウンドを記録した

(この時代の動画が残っているなんて!!我がままかもしれませんがNBAには過去残っている試合の動画を全て公開して欲しいです)

 

前年29勝だったチームを48勝のプレーオフまで導く活躍だった。

※この年の新人王はジョーダン

 

ルーキー時代のハイライト集

 

1987-88シーズン(4年目)には元ロケッツのエースだったラルフ・サンプソンを放出。これによりオラジュワンを中心としたチーム作りが明確となる。

 

オラジュワンはスターの道を完全に進んでいるものの、チームはプレーオフ1回戦敗退が続いた。

この間にリバウンド王2回、ブロック王を3回も取得しオールNBAチームの常連にもなった。

 

オラジュワンとサンプソンは当時のツインタワーであった

 

 

1990年の試合ハイライト、クアドルプル・ダブル(トリプルダブルの上)を達成した

 

 

オラジュワン、暗黒の時代へ突入

 

1991-92シーズン(8年目)はオラジュワンとって最悪のシーズンとなった。

ロケッツはプレーオフで勝ち進めないものの、一定の勝利はしておりプレーオフ出場は毎年のように出場していた。

 

しかし、この年に初めてオラジュワンがプレーオフに出場できなくなったことで、チームとの間に亀裂が入り始める。オラジュワンは自分がいながらもチームを強くしようとしない経営陣にストレスを溜めるようになった。また、オラジュワンの年棒はスターにも関わらず評価に値する報酬を受けていなかった。

 

翌シーズン1992-93はルディ・トムジャノビッチがヘッドコーチとなり、チームのムードは変わりつつあった。

チームは前年から13勝も上げ、プレーオフにも再び返り咲いた。

 

しかし、オラジュワンと経営陣の間には深い溝ができてしまっていた。

シーズン終了1ヵ月前、ハムストリングの負傷で試合を欠場することとなった。そのことに対し、経営陣はオラジュワンが怪我を偽装しチームを不当に脅していると非難した。

これにオラジュワンが激怒、このシーズンでロケッツから去るのではないかと言われており実際にトレードの案も出ておりヒートやクリッパーズが候補とされていた。

 

How a Tokyo plane ride saved Hakeem from leaving the Houston Rockets

 

 

突然の仲直り

 

日本でのエキシビジョンマッチのため、チームは東京へ移動していた。飛行機はダラス空港から14時間。オラジュワンの隣にはロケッツのオーナーであるチャーリー・トーマスが座っていた。

 

激しい喧嘩を繰り返し、お互いに話すことが無くなっていた2人だが、何かのきっかけがあったのだという。(詳細は見つかりませんでした。)

 

オラジュワンはこのように話している。

「以前はチャーリーと仲が良かったが、酷く揉めてしまった。飛行機で話し合ったことはきっと、お互いの関係を修復するための1歩となるだろう。しかし、元に戻ることはできず、私たちにできることは、一緒に先に進むことだけだ」

 

 

NBAファイナル2連覇

 

トムジャノビッチ体制になったことで、オラジュワンのプレーには変化があった。それがチームメイトを活かすためのアシストであった。

そのアシストから回りの選手が外から射抜き、オラジュワン自身のオフェンスも更に効率よく決めることが出来るようになった。

 

3シーズン平均で22.6得点だったのが、トムジャノビッチ体制になった年が26.1得点。その翌年は27.3得点を記録した。

 

2度のファイナルではユーイング、オニールといずれもスーパーセンターとの対決同士でありオラジュワンはいずれもライバルを倒して優勝した。

 

ファイナルMVPを2度受賞し、オラジュワン自身も最高の選手としての栄誉を受けることとなった。

 

オラジュワン、キャリアTOP10プレー

 

1993-94シーズンはMVPを受賞し、アメリカ生まれ以外で初めての受賞した選手となった

1994-95シーズンは大学時代のチームメイトであるドレクスラーと再開、共に優勝を果たした

1996年には「Living the Dream」という自伝を出版した。

 

 

キャリアの晩年⇒ロケッツからの移籍

 

オラジュワンは怪我や不整脈に悩まされることとなり、優勝の2年後から徐々にゲームの支配力を落とすこととなる。

【ドレクスラー、バークリーのビッグスリー】、【バークリー、ピッペンとのビッグスリー】を組んだがベテランが多く怪我人も増えたチームでは優勝を狙うことは出来なかった。

 

ロケッツは若手ガードのスティーブ・フランシスを中心にチーム作りを始めることとなった。オラジュワンの時代は終わりを迎えたと誰もが思う中、オラジュワンはまだプレーが出来ることを証明したかったという。

 

ロケッツからの再契約を提示されたがオラジュワンはこれにサインせず、ラプターズへトレードされることとなった。

 

2001-02シーズン、ラプターズでは主にベンチからの出場となった。ヴィンス・カーターがエースのチームでオラジュワンはブロックなどディフェンスで力を発揮した。

しかし、シーズン途中で深刻な背中の怪我を負う。プレーオフにも出場したもののこれが原因となり引退することとなった。

 

 

 

イスラム教徒として

 

NBA入団当初は深い信仰心ではなかったが、いつからか宗教への関心が強くなりムスリルとなった。

ラマダン(日中の1ヵ月間は飲食をしない)があるにも関わらず試合には出場しており、その中でもプレーの質を落とすことは無かった。

 

 

引退後

 

ヒューストンにある牧場と、イスラムの研究をするためにヨルダンとを行き来している。

ヒューストンでは不動産業でも成功しており、その利益は1億を超えている。

 

2006年 ビッグマンをメインとしたトレーニングキャンプを開催する。(初めての試み)

コーチングには興味がないものの、若いプレーヤーへのアドバイスは惜しまず、キャンプも無料で行っている。

 

未来ある若者へのアドバイスは頻繁に行われている

 

オラジュワンに教えを受けたNBA選手にはコービー・ブライアント、ドワイト・ハワード、ヨウ・メイ、カーメロ・アンソニーなど多数いる。

 

2008年 NBA殿堂入りを果たす。

 

デビッド・スターンと抱き合うオラジュワン

オラジュワンはスターンがコミッショナーに就任しドラフトを読み上げた初めての選手

 

 

2015年 アフリカでのスペシャルマッチに特別出場した。

 

2016年 FIBAの殿堂入りを果たす。

 

2016年、シャックとの写真

 

 

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