2021-10-29・・・作成

2024-08-11・・・情報追加・更新

 

 

 

 

アキーム・オラジュワン

 

ロケッツを2度の優勝に導きMVPを受賞した歴代最高センターの1人。ドリームとの愛称で呼ばれ、ポストから繰り出される必殺ドリームシェイクは誰も止めることができなかった。滅多に感情の高ぶりを見せない、寡黙なリーダーである。

私生活では現役中の1996年に結婚し、2人の娘がいる。

 

213cm/115kg

ポジション:センター
ドラフト:ヒューストン・ロケッツ(1984年ドラフト1巡目全体1位)

 


 
主な記録はこちらから
https://www.basketball-reference.com/players/m/maxweve01.html ;

 

 

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ナイジェリアで生まれ、スポーツと出会う

 

 

ナイジェリアのラゴスで生まれた。当時のラゴスは石油が豊富な地域にあり、急速に発展を遂げつつある場所だった。セメント事業を営む労働者階級のヨルバ族の両親がおり、8人兄弟の3番目の子供だった。

 

両親は非常に働き者でオラジュワンはそんな両親から成功の秘訣を学んだという。学業にも非常に熱心で英語以外にもフランス語、アラビア語、ナイジェリア語のヨルバ語とエキティ語を話すことが出来るようになった。

 

オラジュワンがスポーツに目覚めたのはサッカーだった。ゴールキーパーとして活躍し、その時代にバランス性とフットワークを得たことでバスケットに取り組む際も、その経験が活かされたという。「ドリームシェイクは、サッカーの動きを流用したものの1つだよ。3つの動きをすることでこれを得ることができるんだ。1つは相手をフェイントし謝った方向に意識させること、2つは、相手をフリーズさせる、そして3つはディフェンスを振り切り相手を置き去りにするんだ」Olajuwon

 

そして15歳、高校生。ついにオラジュワンはバスケットボールを始めた。その時に国際試合に出場し、相手チームのアメリカのレベルの高さに驚いたという。その出来事からオラジュワンはアメリカでプレーすることを目指しナイジェリアからアメリカのヒューストン大学(体育学部)へ進学した。

 

 

ヒューストン大学への進学

 

 

 

 

オラジュワンは、ナイジェリアからヒューストン大学「クーガーズ」のガイ・ルイス監督の下でプレーするために移住した。特別な期待を受けていたわけではなく、ルイスの友人がオラジュワンのプレーを見て推薦したことから大学に招かれた。1980年に彼が空港に到着したときには、誰も迎えに来ておらず、電話をしたところ「タクシーを使って、大学に来い」と言われた。
 

1年目はNCAAの出場規定をクリアできず、レッドシャツとしてプレーした。

 

2年目はベンチからの出場となった。プレー時間を増やすために、オラジュワンはコーチ陣からヒューストン在住のNBAスター、モーゼス・マローンと一緒に練習することを勧められた。オフシーズンにマローンや多くのNBA選手と練習したことで、オラジュワンは自身のゲームが急速に向上し、まるで別人のようなプレーヤーになったという。「モーゼスとプレーすることで、NBA最高のセンターに対して自分の技術を磨くことができた」Olajuwon

 

モーゼス・マローンの指導、そして当時のコーチであるガイ・ルイスはオラジュワンのメンターとなり、恩師となったという。そのかいもあり、2年・3年とグングンとチームの中心選手として活躍することとなった。この頃から「ザ・ドリーム」というニックネームがつけられた。これは彼があまりにも簡単にダンクを決めたため、大学のコーチが「まるで夢のようだ」と言ったことに由来している。

 

2年目は先輩であるクライド・ドレクスラーと共にチームのコアメンバーの一人となった。ドレクスラーとは後にロケッツで再び、チームメイトとなる。3年目はオラジュワンを中心としたチーム体制となり、NCAAチャンピオンにはなれなかったものの、大会のトーナメント・オブザ・イヤーに選出されるまでとなった。

 

 

 

 

シーズンの後、このまま大学に留まるかNBAドラフトに早期エントリーするかが議論された。当時は、1985年にNBAドラフトロッタリーが導入される前であり、最初のピックはコインフリップで決定されていた。結果、ヒューストンはブレイザーズを抑えて1位指名権を得た。オラジュワンは1984年のNBAドラフトでロケッツに全体1位で指名された。

 

オラジュワンは自伝『Living the Dream』の中で、ブレイザーズへのトレードも提示されていたと言及している。ブレイザーズには1年先にNBA入りしたヒューストン大のチームメイト、クライド・ドレクスラーが在籍しており、代わりにラルフ・サンプソンと2位指名権をロケッツが得るというものだったという。これによりブレイザーズはオラジュワンとドレクスラーのコンビ、ロケッツはマイケル・ジョーダンを指名していた可能性もあったとされており、リーグの歴史を大きく変えていた可能性があったとされている。
 

 

ロケッツにドラフト指名、瞬く間にスターへ

 

 

ドラフト1位指名でロケッツに入団した。新人ながらシーズン平均で20.6得点、11.9リバウンド、2.7ブロックを記録しオールスターにも選出された。前年度の29勝から48勝へと勝率を上げ、プレーオフ出場にも貢献した。

 

 

オラジュワンのデビュー戦のハイライト、マブス戦に勝利し24得点9リバウンドを記録した

(この時代の動画が残っているなんて!!我がままかもしれませんがNBAには過去残っている試合の動画を全て公開して欲しいです)

 

 

 

 

1985-86シーズン(2年目)、プレーオフではウェスタンカンファレンス・ファイナルまで進出し、前年度のチャンピオンであるレイカーズと対戦した。ロケッツはこのシリーズを4勝1敗で勝利し『スポーツ・イラストレイテッド』の表紙を飾った。

 

1987-88シーズン(4年目)には、元ロケッツのエースだったラルフ・サンプソンを放出。これによりオラジュワンを中心としたチーム作りが明確となる。この変化は、新しいコーチであるドン・チェイニーの就任とも重なった。ロケッツはレギュラーシーズンを45勝37敗で終え、オラジュワンは13.5リバウンドでリバウンド王となった。

 

オラジュワンはスターの道を完全に進んでいるものの、チームはプレーオフ1回戦敗退が続いた。この間にリバウンド王2回、ブロック王を3回も取得しオールNBAチームの常連にもなった。

 

 

 

1990年の試合ハイライト、クアドルプル・ダブル(トリプルダブルの上)を達成した

 

 

オラジュワン、暗黒の時代へ突入

 

 

1991-92シーズン(8年目)はオラジュワンとって最悪のシーズンとなった。ロケッツはプレーオフで勝ち進めないものの、一定の勝利はしておりプレーオフ出場は毎年のように出場していた。しかし、この年に初めてオラジュワンがプレーオフに出場できなくなったことで、チームとの間に亀裂が入り始める。オラジュワンは自分がいながらもチームを強くしようとしない経営陣にストレスを溜めるようになった。また、オラジュワンの年棒はスターにも関わらず評価に値する報酬を受けていなかった。

 

翌シーズン1992-93はルディ・トムジャノビッチがヘッドコーチとなり、チームのムードは変わりつつあった。チームは前年から13勝も上げ、プレーオフにも再び返り咲いた。しかし、オラジュワンと経営陣の間には深い溝ができてしまっていた。

 

シーズン終了1ヵ月前、ハムストリングの負傷で試合を欠場することとなった。そのことに対し、経営陣はオラジュワンが怪我を偽装しチームを不当に脅していると非難した。これにオラジュワンが激怒、このシーズンでロケッツから去るのではないかと言われており実際にトレードの案も出ておりヒートやクリッパーズが候補とされていた。

 

突然の仲直り

 

日本でのエキシビジョンマッチのため、チームは東京へ移動していた。飛行機はダラス空港から14時間。オラジュワンの隣にはロケッツのオーナーであるチャーリー・トーマスが座っていた。激しい喧嘩を繰り返し、お互いに話すことが無くなっていた2人だが、何かのきっかけがあったのだという。(詳細は見つかりませんでした。)「以前はチャーリーと仲が良かったが、酷く揉めてしまった。飛行機で話し合ったことはきっと、お互いの関係を修復するための1歩となるだろう。しかし、元に戻ることはできず、私たちにできることは、一緒に先に進むことだけだ」Olajuwon

 

 

NBAファイナル2連覇

 

 

 

 

トムジャノビッチ体制になったことで、オラジュワンのプレーには変化があった。それがチームメイトを活かすためのアシストであった。そのアシストから回りの選手が外から射抜き、オラジュワン自身のオフェンスも更に効率よく決めることが出来るようになった。3シーズン平均で22.6得点だったのが、トムジャノビッチ体制になった年が26.1得点。その翌年は27.3得点を記録した。

 

1993-94シーズンのNBAファイナルでロケッツを優勝に導いた。このシリーズはニックスとの7試合の対決となり、オラジュワンの大学時代からのライバルであるパトリック・ユーイングが所属していた。2–1でリードされていたニックスは、ゲーム6で3–2とリードを奪った。ロケッツが86–84でリードしている中、試合終了間際にニックスのジョン・スタークスが試合終了間際のスリーポイントを放ったが、オラジュワンはこのショットをブロックするクラッチプレイを成功させた。ゲーム7では、オラジュワンが試合最高の25ポイントと10リバウンドを記録し、ニックスを破ってヒューストンに1961年のアメリカンフットボールリーグ選手権以来のプロスポーツチャンピオンシップをもたらした。オラジュワンはユーイングとの直接対決で圧倒的な力を見せ、シリーズの全試合でユーイングを上回り、1試合平均26.9ポイントを記録した(50%の成功率)。対するユーイングは1試合平均18.9ポイント、成功率36.3%だった。オラジュワンはファイナルMVPに選ばれた。

 

 

このシーズンのオラジュワンはキャリアの頂点に立っていた。NBA史上唯一となるシーズンMVP、優勝、ファイナルMVP、ディフェンシブプレイヤーオブザイヤーを同時受賞した。また、MVPを受賞した初の外国生まれの選手でもあった。

 

翌年には大学時代のチームメイトである、クライド・ドレクスラーが加入した。オラジュワンはシーズン終わりの8試合を貧血で欠場したものの、プレーオフには問題なく出場した。プレーオフではスパーズのデビッド・ロビンソンと対戦し、彼を圧倒した。オラジュワンは1試合平均35.3ポイント(成功率56.0%)を記録し、ロビンソンの23.8ポイント(成功率44.9%)を大きく上回った。後にLIFE誌でオラジュワンに対処する方法について聞かれたロビンソンは「アキームには対処できない」と答えた。ロケッツはシリーズのすべてのロードゲームを勝利した。NBAファイナルでは、若きシャキール・オニールが率いるマジックをスウィープした。オラジュワンは全ゲームでオニールを上回り、すべての試合で30ポイント以上を記録し、再びファイナルMVPに選ばれた。

 

 

 

キャリアの晩年⇒ロケッツからの移籍

 

 

 

 

オラジュワンは怪我や不整脈に悩まされることとなり、優勝の2年後から徐々にゲームの支配力を落とすこととなる。【ドレクスラー、バークリーのビッグスリー】、【バークリー、ピッペンとのビッグスリー】を組んだがベテランが多く怪我人も増えたチームでは優勝を狙うことは出来なかった。

 

ロケッツは若手ガードのスティーブ・フランシスを中心にチーム作りを始めることとなった。オラジュワンの時代は終わりを迎えたと誰もが思う中、オラジュワンはまだプレーが出来ることを証明したかったという。ロケッツからの再契約を提示されたがオラジュワンはこれにサインせず、ラプターズへトレードされることとなった。

 

2001-02シーズン、ラプターズでは主にベンチからの出場となった。ヴィンス・カーターがエースのチームでオラジュワンはブロックなどディフェンスで力を発揮した。しかし、シーズン途中で深刻な背中の怪我を負う。プレーオフにも出場したもののこれが原因となり引退することとなった。

 

 

イスラム教徒として

 

NBA入団当初は深い信仰心ではなかったが、いつからか宗教への関心が強くなりムスリルとなった。ラマダン(日中の1ヵ月間は飲食をしない)があるにも関わらず試合には出場しており、その中でもプレーの質を落とすことは無かった。

 

 

引退後

 

ヒューストンにある牧場と、イスラムの研究をするためにヨルダンとを行き来している。

ヒューストンでは不動産業でも成功しており、その利益は1億を超えている。

 

2006年 ビッグマンをメインとしたトレーニングキャンプを開催する。(初めての試み)コーチングには興味がないものの、若いプレーヤーへのアドバイスは惜しまず、キャンプも無料で行っている。

 

 

 

オラジュワンに教えを受けたNBA選手にはコービー・ブライアント、ドワイト・ハワード、ヨウ・メイ、カーメロ・アンソニーなど多数いる。

 

2008年 NBA殿堂入りを果たす。

 

デビッド・スターンと抱き合うオラジュワン

オラジュワンはスターンがコミッショナーに就任しドラフトを読み上げた初めての選手

 

 

2015年 アフリカでのスペシャルマッチに特別出場した。

 

2016年 FIBAの殿堂入りを果たす。

 

2016年、シャックとの写真