前回の続きである。
「私」とか「自分自身」というアイデンティティは、実は「私」に属する細胞代表のような意識であると書いた。
また、それは日々メンバーが入れ替わり、数年で全く入れ替わるとも述べた。
そう考えると、私達は、変化に機敏に対応できる要素をもっていると気づく。
最も、基本的に変化にブレーキをかけようとする「慣性」のようなものはあるが。。
それでも、大河だって流れを変える。
大地だって隆起を繰り返し変動している。
「慣性」という現状を維持しようとする意識さえ取っ払えば、人は簡単に変化できる要素を持っているのだろう。
そして、行動や考え方が画期的に変化しても、「私」というアイデンティティが変わるわけでもない。
日本の国技である相撲は、いまや外国人横綱が双璧となり、伝統文化を守っている。
その、構成員が外国人になっても、日本の国技というアイデンティティは変わらない。
そう言う意味では、保守的と言われる組織でさえ、変化できるのだ。
私達は、変化できることを確信し、少しでも良くなろうと努力することが、当たり前であると思うことが必要だ。
それが、なりたい自分になる近道なのだろう。
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であれば、「アイデンティティとは?(1)」で述べた、板をすべて取り替えた「白いボート」は、やはり「白いボート」のままである。
また、我々の体の大半が、半導体や油圧式の部品に置き換わったとしても、「私」というアイデンティティは、そのままであると言えるだろう。