どうも、SHINGOです。

 

今回は、

 

アーサナの概念を覆す

 

というテーマで

お伝えいしたいと思います。

 

 

まず、

アーサナは、坐法ではない。

 

というお話から。

 

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■アーサナは、坐法ではない

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アーサナとはヨガのポーズです。

 

これが、アーサナに対する

一般的な定義であり、

SHINGOも最終的な

定義としてもそれです。

 

では「アーサナの概念を覆す」は何か?

 

それらは、

ヨガインストラクターが、

理解せず聞きかじったもので

流布された考え方を覆す

ということです。

 

 

さて、

一般人からすると

ヨガってポーズ取るやつでしょ?

 

って認識です。

 

しかし、

ヨガを深めると

こんな話に出くわすのです。

 

「アーサナとは、坐法だ。」

 

しかしその翻訳には、

違和感を覚えます。

 

 

なぜ、坐法と

訳されたかというと、

 

はじめに瞑想があり、

それをするための姿勢が

アーサナだということから、

 

アーサナ=坐法

 

とされました。

 

確かに瞑想ありきなのですが、

そのための姿勢もいいですけど、

アーサナだというのもいいですけど、

 

座らなければ瞑想ができない。

 

ということがそもそも

瞑想を分かっていないのです。

 

瞑想とは、意識的であること。

観察の意識があること。観ていること。

 

 

瞑想が座ってやるだけの

ものだというなら、

 

ヨガをやっていない

瞑想だけをやっている

人たちに笑われてしまいますね。

 

 

次の言い分も瓦解します。

 

「『アーサナは、坐法』っていうけどさ、立ってるポーズとか横になってるポーズとかあるじゃん?それってなんなの?」

 

「それは、瞑想するために座りやすい体を作るためにやっているものなんだよ」

 

 

実際に座る姿勢、たとえば

安楽座、正座、英雄座、蓮華座など以外に

登場するポーズは、

 

すべて、

その瞑想するための

姿勢を作り上げるための

準備だというのです。

 

 

でも、そもそも、

瞑想している人たちって

そんなことやってないからさ。

 

そして、座るだけが瞑想じゃない。

 

それらは、瞑想法。

 

だし、さらにその一種でしかない。

 

瞑想は座るものだ。

 

 

みたいなことと

思っているのだから、

 

もう、可笑しい。

 

 

だから、訂正しなければならない。

 

昨日の話も踏まえて、

 

ヨガはポーズであるし、

 

アーサナは坐法で無くてポーズで、

 

瞑想は座らなければできない。

 

なんてことはありえない。

 

 

ちなみに、アシュタンガは

【動く瞑想】とされてます。

 

座ってないですね。

 

 

とはいっても、

アシュタンガやってれば、

【動く瞑想】をしているかって

言えば違います。

 

 

結局はどんな行為も

どんな意識でやってるか?

で、どんな結果になるかは

変わるんです。

 

それが分かってないので、

思うような結果がでないんですよ。

 

それをやれば、

何かことが起こる

というのは幻想です。

 

瞑想という中身があるから、

座っても瞑想になるんです。

 

身体の使い方という中身があるから、

ポーズで身体を変えられるんです。

 

 

あなたが色んなヨガポーズが

できるようになるために

理解しなければいけないのは、

 

身体の使い方であって、

解剖学でもなんでもない。

 

正しい知識では無く、

成果の出る知識を。

 

それを伝えられる

指導者になってください。

 

そうでなければ、

もう自然淘汰されていきます。

 

本当にヨガを伝えていきたいなら、

きちんとアーサナができて

伝えられるようにしないといけない。

 

でもその根っこにあるのは、

 

身体の使い方だから。

 

それこそが基礎なんです。

 

 

では、またあした。