教員免許更新制の頓挫が意味するもの | 王様の耳は驢馬の耳

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 教員免許更新制を廃止する方針が政府内で固まったという。これはそれなりにニュースであった。萩生田文科大臣になって、大学入学共通テストにおける英語民間試験の導入、記述式問題の導入が相次いで頓挫した。そして、2009年度から開始された教員免許更新制を廃止するという。
 安倍内閣の教育政策の尻拭いを萩生田文相がしているかの感があるが、加計学園と縁の深い(元加計学園千葉科学大学名誉客員教授)萩生田氏にその役回りが来たのは単に運が悪かっただけだと思いたい。
 教員免許更新制が具体的に教育改革の目玉となって登場したのは小渕内閣のときにつくられた首相の私的諮問機関である教育改革国民会議がまとめた報告「教育を変える17の提案」(2000年12月22日)の中で「免許更新制の可能性を検討する」という文言が書き込まれていた。この「17の提言」には教育基本法の改定がしっかり書き込まれていたし、後に芽を吹く火種がばらまかれていた。
 教員免許更新制はそれ以前からもたびたび話題に上っている。古くは1983年に自民党文教制度調査会・文教部会が発表した「教員の養成、免許等に関する提言」の中で触れられていたらしい一。その後、臨時教育審議会でも議論され、教育改革国民会議で具体的提案となって登場したものである。
 「17の提言」では教員の評価について、「効果的な授業や学級運営ができないという評価が繰り返しあっても改善されないと判断された教師については、他職種への配置換えを命ずることを可能にする途を拡げ、最終的には免職などの措置を講じる」としたうえで、「採用後の勤務状況などの評価を重視する」として、「免許更新制の可能性を検討する」とした。特定の教師に不適格者のレッテルを貼って排除する、という思想に基づいている。これは同じ「17の提言」に書き込まれた「問題を起こす子どもへの教育」に通ずるものがある。「一人の子どものために、他の子どもたちの多くが学校生活に危機を感じたり、厳しい嫌悪感を抱いたりすることのないようにする」と多数派の子どもたちの教育を優先する視点に立ち、「問題を起こす子どもへの対応をあいまいにしない」として、いわゆる「問題を起こす子ども」を「出席停止」などの手段で排除するという思想であって、教員免許更新制案と共通する新自由主義的弱い者いじめと言ってもいい発想に基づいている。
 このような考えは、巷間、保守系にとっては教育改革のひとつの課題とはなっていた。
 1996年2月に実施した讀賣新聞の調査二では「教師の質が低下した」という声が46%あると指摘した上で、その理由を「教育者としての責任感が薄い」61%、「児童・生徒への観察力が乏しい」38%、「児童・生徒への影響力や指導力がない」36%、「教育者としての職業倫理を持っていない」「何事にも熱意がない」各32%という形であげている。
 一方、教師の質が「良くなった」としたのは4%に過ぎなかったが、その理由は「知識や学力の水準が高い」33%、「教育者としての責任感を持っている」32%、「何事にも積極的に取り組む熱意がある」30%、「児童・生徒の人権を尊重する」23%などであったという。
 「よく勉強し、人権意識も強くなった」という点はささやかだが評価されているのだが、教師との距離感のような「責任感、存在感、倫理観」において不評であったという数字であったと読める。これは教員は自ら専門性の向上について努力している者がいることを認めた上で、教員として不適格な人物がいるという世論があることを強調した結果となっていた。この不適格な人物を排除することへの期待を暗示するものであった。
 教育改革国民会議の発足後すぐに小渕首相は急逝し、この「17の提言」は森喜朗首相に提出されたものであった。「17の提言」は、教育基本法の改定を目的とした内容のものであり、その路線の中に教員免許更新制が位置付いていたと見ておく必要がある。それは先の『讀賣』の世論調査の流れから導き出された答案であり、後に「教育基本法改正、教員免許更新制の導入-。戦後レジームからの脱却を掲げる安倍政権の教育再生は、日教組にとって『戦後教育の一翼を担った教組の解体をもくろんでいる』(日教組関係者)と映る」三という安倍政権による教組解体工作として非難される構造のものだろう。教師として不適格な人物を取り除くための免許更新という考え方になる。
 ところが、この提言で示された教員免許更新制は翌月まとめられた「二十一世紀教育新生プラン」では先送りされ、2001年11月の中央教育審議会で見送りとなった。不適格な人物を取り除くという側面での免許更新制については、(1)免許状授与の際に人物等教員としての適格性を全体として判断していないことから,更新時に教員としての適格性を判断するという仕組みは制度上とり得ない。(2)人物等教員としての適格性を客観的に判断できるようなメルクマールがあるのかという難しい課題。(3)一般的な任期制を導入していない公務員制度全般との調整の必要性等,制度上,実効上の問題などの理由によって、更新制は無理という判断であった。
 そこで、別に取って付けられた更新制採用の視点は「教員の専門性の向上」であった。これは先の『讀賣』の調査によればささやかながら教員の現状は評価されているもので、敢えて更新制採用を必要とするべきものではなかったのであり、まさしく取って付けた視点でしかなかった。尤も、これについても教員にのみこれをおこなう制度的に無理があるという判断であった。
 それが数年後に息を吹き返したのである。2004年10月小泉内閣の中山成彬文科相は「今後の教員養成・免許制度の在り方について」なる諮問を中教審におこなった。中山は日教組を目の敵にしている政治家であったことはよく知られている。その中山が教員免許更新について「教員免許状が教員として必要な資質能力を確実に保証するものとなるようにするとともに,教員一人ひとりが常に緊張感を持って,自己の資質能力の向上のために一層研鑽を積むようにするためには,教員免許制度を改革し,教員免許更新制を導入すること等について,検討する必要がある」という理由で諮問をおこなったのである。
 この諮問に対する答申は小泉政権終盤の2006年7月に提出された。この答申では「更新制の導入により、すべての教員が、社会状況や学校教育が抱える課題、子どもの変化等に対応して、その時々で必要とされる最新の知識・技能等を確実に修得することが可能となる。」という取って付けたような意義を与えられていたが、趣旨として「いわゆる不適格教員の排除を直接の目的とするものではなく、教員が、社会構造の急激な変化等に対応して、更新後の10年間を保証された状態で、自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ていくという前向きな制度である」といった方針の転換というより、詭弁を弄することで再出場させることにしたのである。ここでの大きな勘違いは〔研修を受ければ「自信と誇り」を持ち、「尊敬と信頼」を得られる〕という彼ら(!)の教育観であった。
 この教員免許更新制は教職大学院と抱き合わせで具体化した。このことは大きな意味を持っている。なぜならばこの抱き合わせの中に彼ら(!)が誤解している教師像があらわれているからである。
 今、誤解していると書いた。「目指している」ではなく「誤解している」と書いたのはそもそも彼ら(!)に教師及び教育に対する見識というものが欠落しているから、ということであって、彼ら(!)が悪意を以て教師像を描いていたとは決めつけたくないからである。
 大きなまちがいは教育の成果を数値化し始めたことによる。古くは1961年の全国一斉学力テストの実施である。この学力テストに対して日教組は「中学校をテスト準備、予備校化し、知育偏重、民主的教育を破かいするものである」四と位置づけ、反対闘争を展開したのであった。また、この時、日教組がどこまで理解していたのかは分からないが、受験競争は激化し、子どもたちの輪切りはとどまるところを知らず、現在に至っている。受験戦争と呼ばれたものは少子化と共に対戦相手がいなくなることで終焉を迎えてもよかったのだが、そうはなっていない。学習塾は健在でこの国の至る所に看板を見るし、受験産業は教育産業と名を変えて国の学力調査を引き受けるまでに成長している。
 背景には教育の成果の数値化を目的とする信仰といってもいい病魔が教育界を浸潤しているからであると言っておきたい。数値化された成果物は一種の商品であると言ってもいい。教育が商品化されれば、学生は消費者化し、授業は授業料に見合った(学生が喜ぶ)甘い味付けになり、学力は下がり、教育は崩壊するという五。実際、学校では成績という数値化された教育の成果のみ年にが問題とされ、そのツケは低学力の子どもたちに回されてくる。なぜならば、その子たちには低い数値という量のみが押しつけられ、学びの質はまったく与えられない。さいわいにして高い数値を得たものであっても、数値信仰から抜けられず、大学での学びに堪えられない学生は増えている。たとえば、高偏差値の大学でまともな卒論が書けない学生が増えている。それし「最近では,単なる提出物程度に考える者が増えてきた.そうするとより低い『お友だち水準』に合わせようとしてしまい,質の低下を招くことになる.」六というのはまさに大学教育が商品化され、卒論が単位数という数値で処理されるようになった結果だろう。
 数値化を推し進めてきたのは、教育の現場であり、そこには日教組の組合員もいた。彼ら、彼女らは善意を以て無自覚に子どもたちに数値を目標とする学びを教えてきた。だから「誤解」なのである。
 話を戻そう。抱き合わせとされた教職大学院は「実践的な指導力・展開力を備え、新しい学校づくりの有力な一員となり得る新人教員の養成」と「地域や学校における指導的役割を果たし得る教員として、不可欠な確かな指導理論と優れた実践力・応用力を備えた『スクールリーダー(中核的中堅教員)』の養成」(2006年答申)を目指すものとして構想された。教職大学院では他の専門職大学院と同様、一定数の実務家教員を置くこととなっている。実務家教員とは実際にその専門職に通暁した人間である。「新人教員の養成」ならそういう人物から学ぶことは意味があるのかもしれないが、「スクールリーダー」となるとこれは単に先輩教員から伝授される話になり、敢えて専門職大学院に行く必要性はなくなる。ならば、教職大学院はの役割は単に専門職修士の学位を入手するというに過ぎなくなる。
 自分の経験から言うのだが、かつて教育学系の大学院の門戸を教員を主とする社会人に開放したことがある。この時は研究能力のみを磨いてもらう場として学術研究の修業をしてもらった。実際に僕自身何人かには研究者としての資質を認めて博士号も出しているし、研究者として自立していった教員院生もいた。授業の内容も質も研究者養成のものであったし、そのことを社会人院生もそれを期待して食いついてきたものであった。
 しかし、教職大学院は前述のように専門職修士を取ることが次の教員としてのキャリアアップのための資格みたいなものになるのであって、それは商品となる宿命を持っているのである。教員免許更新制も何らかの講習を受ければ更新という商品を得られるというシステムである。そして、こうした商品は商品であるから安易に購入できる。教職大学院は授業料という料金であり、免許更新もまた受講料である。それと引き換えに資格という商品を手に入れているのである。
 ここでおさえておきたいのは教育や学びは権利であると考えたいということである。義務教育は中学校までで、義務教育には教育を受ける権利がある。それ以降の教育は権利ではないと考えている向きがあるなら、それは危険だ。知的好奇心が学術研究の原点であり、教員が己の教育技術を伸ばしたいと思うのも自然な向上心であって、それを満足させようとすることは誰にも止められない。つまりよりよく生きる権利なのである。
 その権利を商品化するから学術研究は金の取れる研究になったり、業績稼ぎのための論文執筆となったり、居眠りをしながら一方的な講話を聞いたりすることで免許が更新されるということになる。
 教員免許更新制が実現しようというとき、讀賣新聞の社説は「都道府県教委が実施する免許更新講習を最低30時間、受講すれば原則的に免許は更新される。仮に修了できなくても、後に『回復講習』を受ければ免許の再授与を申請できる。/ これでは、日ごろから自己研鑽(けんさん)を重ね、緊張感を持って免許更新に臨む教員などいないだろう。講習を聴いただけで更新される免許に『自信と誇り』を感じるだろうか。何より、国民の『尊敬と信頼』を取り戻すことにつながるのか。」七とこの講習が研修(研究と修養)からほど遠い存在であることを喝破していた。
 そして、教員免許更新制の廃止の方向が打ち出された後の読者の意見として次のようなものがあがっていた八。
                                        ◇高校教諭 三神智子 55(東京都葛飾区)
   政府は、「教員免許更新制」を廃止する方針だという。私は制度が始まった2009年度に更新した。日程を考え、講習先を探すのに苦労したが、専門分野の最新研究を学べて、刺激を受けた記憶がある。
   だが、10年後の2回目の更新の際に受けた講習は新鮮味が欠けていた。講師陣も決められたカリキュラムを淡々とこなしているような雰囲気だった。受講する教員間の年齢差も大きく、この状況が続くなら、あまり実践的ではないと感じていた。
 開始当初は気合いが入っていたのだろうが、10年も経てば講習をする方も受ける方もそれが自らの意欲から出るものではなく、売買される商品にすぎないことに気づいたということであろう。研修(研究と修養)は自立的活動でなければ意味はない。昨今言われるアクティブ・ラーニングも自らが学びの主体として問題を見つけ、解決するプロセスを重視する。たとえば大学で卒論を書くというのはそういう学びだった。しかし、金を払って講習を受けるだけのスタイル、金を払って先輩教員の自慢話を聞くこと、そういう学びの商品化が2006年の中教審答申「今後の教員養成・免許制度の在り方について」の描く教師像であった。いや、もっと直裁に言えば、教育というものについての見識のない文書であったと言ったほうがいいのかもしれない。
 さいわいにして教員免許更新制は破綻した。あまりにも無意味で無駄が多いことにさすがに文科省も気がついたのだろう。しかし、問題は教育に対する考え方である。戦後、「なすことによって学ぶ」という経験主義的な教育が試みられたことはあるが、ほどなく系統主義的流れに全体が取り込まれていってしまった。それを知育偏重という人がいるかもしれないが、知育偏重といえば知育に対して失礼である。知識注入指向と言ったほうがいい。この傾向は日本の近代教育には一貫して存在してきた。歴代天皇の名を暗誦させたり、教育勅語を暗誦させたりというのはその典型である。
 「17の提言」では「学校は道徳を教えることをためらわない」などと言って、道徳の教科化を提案していた。これも近年実施の運びとなった。この道徳もそうであるが、教師から児童・生徒へ教え込めばなんとかなるというレベルの教育観が政治的に押しつけられつづけてきた。そして、押しつけられたものの評価は数値なので、それらは商品と化して教育を腐らせてきた。何もかも教え込めばなんとかなる、道徳も教えればいじめはなくなる、というような愚かな信仰が教育現場に根をおろし、いまや取り返しのつかないところにまで来ているのだ。
 アクティブ・ラーニングというのはそうした学びの姿勢を転換する発想であったが、結果的に数値を高める効果に目が行けばそれでおしまいなのである。研究は自らの好奇心に基づいて問題意識を立てて取り組むから意味があるのであり、大学院はその研究の方法を学ぶところである。大学も学問を体験することによって自立した人間をつくるところである。その基本は義務教育や高等学校教育が担うところなのであるが、教員の研修を一方的な講習で済ます限り、それはなんらの効果ももたらさない。逆に子どもたちから「課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力等」九を剥奪することしかできない教師を再生産する。そして、教職大学院も然りであるし、道徳の教科化はいじめをなくすことより、いじめを隠蔽する体質を子どもたちの中に醸成することであろう。
 今回の教員免許更新制の見直しが単に教員の不満を解消する程度の認識によるものならば要注意である。もっと愚かな事態が登場しないとも限らない。まずは教員自身の体質改善から始めねばならないのだが、そこには教師自身の「主体的対話的で深い学び」十が必要なのである。