学問の自由とは何だったか。 | 王様の耳は驢馬の耳

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 手元に一冊の小説がある。門井慶喜『東京帝大叡古教授』(小学館)、おもしろい。主人公は東京帝国大学法科大学(当時は学部ではなく、法科大学、理科大学と称する分科大学という制度であった。各大学に学長がいるので全体のトップを総長と呼んでいたのである)の宇野辺叡古教授を訪ねてきた第五高等学校生徒の阿蘇藤太という青年だ。彼が宇野辺叡古教授と待ち合わせていた帝大の図書館で殺人事件に出くわしてしまうところから始まる。実は阿蘇藤太というのはその時に叡古教授からつけられた偽名である。
 ということで、殺されたのは叡古教授の同僚である高梨力衛教授だった。これを皮切りにさらに2人の博士(1人は学習院教授)が殺されるという展開であり、小説の中には夏目金之助やら徳富蘇峰やら桂太郎といった歴史上の有名人が実名で登場するのも実に楽しい。
 叡古教授は殺された3人にあと4人の東京帝大教授の名を並べて藤太青年に見せる。なんと彼らはいずれも二年前、明治36年6月に意見書を桂首相に提出した同志であったという。これは七博士事件ないしは首謀者である戸水寛人教授の名を取って戸水事件ともいう実際に起きた歴史的事件である。彼らはこの意見書を6月24日付東京朝日新聞に掲載して、耳目を驚かした。実際の七博士とは戸水寛人、寺尾亨、金井延、小野塚喜平次、富井政章、高橋作衛、中村進午(学習院教授)の七名である。で、小説で殺されたのは高梨力衛、鳥居久章、中倉金吾であり、あとの4人は実名で出てくる。おもしろいだろう。
 問題はこの意見書である。意見書は満洲問題に関してのもので、満洲を守るためにロシアに対する開戦を求めたものであった。これに対し、児玉源太郎文相は「大学教授として外交問題に対し意見を発表するが如きは決して黙許すべからずと云ふにありて目下処分策に内儀中の由」(東京朝日新聞1903年6月28日)と処分をほのめかしたが、省内の意見が割れて結論は出なかった。
 果たして、翌年2月8日露戦争は始まった。そして戦争中も「七博士一派」は戦争をするべく運動を続けていた。そうしたところ明治36年8月、文官分限令第十一条第一項第四号「官庁事務の都合に依り必要なるとき」という規程によって戸水寛人教授に休職が命ぜられた。この規程は読み方次第であるが、「少なくとも表面丈は予て風評ありたる懲戒的意味を含まざるものと見て可ならんや」(東京朝日新聞1905年8月25日)と法律の微妙な解釈のもとにおこなわれたものであったようだ。さらに中村進午学習院教授も9月30日付で宮内省より免官されている。
 これは帝国大学というものが「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」(帝国大学令第一条)という規程に基づいており、「国家ノ須要ニ応スル」ということが政府の意向に従うということなのか、国家のために正論を吐くということなのかという判断の問題であった。
 中村博士免官の直後、残り5人の博士たちは文部大臣に抗議すると共に、文官分限令のようなあいまいな形で休職を命ずるのではなく、懲戒令で処分するべきだと訴えていた(東京朝日新聞1905年10月2日) 。
 一方、東京帝大は休職中の戸水博士を講師として嘱託し(同紙1905年10月4日)、事実上復職させた。京都帝国大学法科大学は学長、教授、助教授が連名で文部大臣に抗議文を渡している。そこには「あなたは毅然として学問の独立を保証し、国家権力の手から護るべきなのに、何も考えずに権力に忖度し、法令を曲解して公務員の身分を侵し、大学の教務を妨害した。まずは自分の務めとして戸水寛人に復職を命じ、過ちを認めるという雅量を示しなさい」(東京朝日1905年10月6日)と結んでいた。
 さらに山川総長は戸水休職問題が不当であると文部省に訴え、このままだと教授たちの大反抗があるだろうと告げたにもかかわらずまったく改めようとしない、そうしたら京都大学までが抗議してきたではないか。次は教授たちを応援せざるを得ないが、そうやって上司である文部大臣に逆らうのは本意ではないとして総長を辞職した(同紙1905年12月5日)。山川が辞表を提出したのは戸水の休職措置の直後であったという。つまり三ヶ月余の間辞表は留め置かれていたということになる。このことも東京帝大内では不信感となって積もっていた。
 また山川の意志を聞いた法科大学長穂積八束もまた、辞表を提出し、それを聞いた兄の穂積陳重博士も辞表を提出した。穂積陳重はこの一件に関し、文部省と大学の間で調整をはかる役割を演じていた。にもかかわらず、山川が辞職と相成ったためにみずからも辞表を提出したという。
 そうした動きの中で東京帝大の教授協議会が開催され、山川の後任となった松井直吉総長の辞職を求めた。総長は文部大臣が任命するものであったから、それを拒否したということだろう。松井総長はその勧告を受け入れ、辞表を書いた。さらに協議会では文部大臣、内閣総理大臣のそれぞれに当てて抗議書を提出したのである。
 その一方で、京都帝国大学法科大学では山川辞任の報を聞いて、学長以下全員が総辞職するとして、辞表を提出し、自体はどんどん大きくなった。
 そして遂に桂内閣は久保田譲文部大臣の辞職を以て問題の解決をはかることとした。さらに辞表を提出していた教授たちは辞表を撤回することで納まり、年が明けて明治39年1月29日には戸水寛人が復職となり、中村進午も2月3日付で東京高等商業学校(現一橋大学)教授に復職することになった。さらに大学の特別会計に改正が加えられて、財政的な自立の道が開かれた。「大学の独立」、いわば大学の自治の芽が生まれたと言ってもいいだろう。。
 この騒動の成果は学問の自由を世間に認めさせたということにある。ちなみにネタバレになるかもしれないが、『東京帝大叡古教授』の主人公阿蘇藤太は日本の戦争に終止符を打つ役割を果たしたとある実在の人物であったというオチがついている。
 それから七年後の大正2(1913)年今度は京都帝国大学で事件が起きた。5月9日付であの山川健次郎が再び東京帝国大学総長に任ぜられ、同時に京都帝国大学総長に澤柳政太郎という人物が任ぜられた。澤柳は文部官僚として次官まで上り詰めた人物で、東北帝国大学の初代総長を務めていた。一方で、教育学者として多数の著作も著している。また、後に成城小学校を創設して、大正新教育を展開した人物としても知られる。
 その澤柳が東北帝国大学から京都帝国大学へ総長として転任してきたのは、若い頃に群馬県尋常中学校や第二高等学校の校長をしており、その頃に紛擾事件を解決し、またその手腕を買われていた。元文相の久保田譲は「澤柳氏は人格といい手腕といい、大学総長としてまったく不足がない。殊に教育についての見識を持っており、京都帝国大学のような比較的新進気鋭の教授連の統御上にも都合がいいだろう」(東京朝日1913年5月10日)とその管理上の手腕を評価していた。久保田の談話にあるように当時の京都帝国大学ではいろいろと問題が発生しており、「当時総長の来任は京都大学教授連に一大斧鉞を加えんがために奥田文相の意をうけて来たという説がある」(東京朝日1913年12月21日)という風評があったし、まちがいないだろう。また、当時の政府は全省で人件費の削減を目論んでいたという事情もあった。ということで、澤柳は7月12日文科大学教授谷本富、理工科大学教授村岡範為馳、横堀治三郎、吉田彦六郎、三輪恒一郎、吉川亀次郎、医科大学教授天谷千秋の七名の辞職を公表したのである。ちなみに文科大学助教授であった西田幾多郎はおかげで教授に昇進したというエピソードもついてくる(東京朝日1913年7月13日)。
 そして、なんと先の七博士事件で先鋭的であった法科大学は1人も辞職者がいなかったが、法科大学教授会会議は教授の位置を保障すること、教授を削減するときは総長の専断ではなく必ず教授会議の議決を要することなどを要求し、澤柳総長と対立した。京都帝国大学にとっては教授の自由な研究を文部省は不穏当とみなしているのは公然の秘密だといわれ、もしその教授を罷免するとなったとき教授会は如何にこれを防ぐかということが教授会の憂慮するところであった。そして、「良き総長はその専制を良き意味に使用することができるが、官僚的な総長はそれを官僚的に使用することができる。澤柳総長が罷免する七教授を選ぶのに苦労したと言つているが、今まで京大外にいて京大のことを知らない澤柳が何を根拠に教授の能不能を断定したのか。教授たちはその判断の根拠を教授会に置くべきだと要求しつつある」(大阪朝日1913年12月26日)とメディアは見ていた。
 そして、年が明けた大正3年1月15日大阪朝日新聞は「京都法科大学総辞職」という号外を出している。それを見て、奥田文相は法科大学教授との会見がもたれた。この調停役には七博士事件に名を連ねた穂積陳重、富井政章がついていたのも因縁だろう。そして、総長も教授も全員留任すると言うことで手を打ち、「教授任免については総長がその職権の運用上教授会と協定するのは差し支えない」という合意を得た。これは教授人事は教授会が握る道筋となった。澤柳は四月にみずから職を辞し、後任にはいったん東京帝大の山川健次郎が兼任することになった
ものの、翌年には総長選挙が行われ、教授会の選出した荒川寅三郎が就任することとなった。
 この結果、学問の自由がもう一段階進んだと言える。教訓として言えるのはもとい「国家ノ須要ニ応スル」学問を国家の望む学問ではなく、そのためにはそれが自由であることを勝ち取ってきたということになる。
 20世紀初頭に起きた二つの事件は今回の学術会議任命拒否事件とよく似た部分がある。いずれも人事を以て学問を蔑ろにしようとしていた。不都合なものは根拠を示さずに消していこうという点でもよく似ている。それに対して教授たちはみずからの地位を賭して闘ったのである。そのことにより、状況は確実に前進したのである。そうした蓄積が今、学問の自由を語る基盤になっているということを忘れてはならない。また、メディアも闘っていたのである。大阪朝日新聞は「今、(澤柳総長の人事を)突っぱねなければ大学は官僚政治の下に屈従してしまう運命にある。泣き寝入りは極めて危険だ」(大阪朝日1913年12月19日)と警鐘を鳴らしていた。この官僚政治はまさに今の菅政権のあり方そのものである。
 先日、ラジオ番組の中で官僚出身で政治家経験者の大学教授が「学術会議問題のような優先順位の低いことばかり議論してないで、もっとやることがあるでしょう」みたいな発言をしていて、アナウンサーはありがたく同意していた。 まさに官僚出身の価値観が露骨に出ている。違っているのはメディアの姿勢であろうか。
 今、私たちは学問の自由という先人の勝ち取った財産を持っている。それが官僚政治的発想の中で押しつぶされていくのを指をくわえてみていてはいけない。優先順位は何よりも高いのだ。