善悪に関するある大学の論文には次のように書いてあります。

 

「そもそも道徳的な善悪はなぜ私たちにとって必要なのであろうか。また私たちはなぜそうした善悪を探求するのであろうか。そしてまた本当にこうした私たちの話し合いだけで道徳的な善悪を定めることができるのだろうかという疑念が浮かぶ。道徳的な善悪について考察することは決して容易いことではないが、それでも私たちは眩量に堪えながら、寄る辺なき状態において議論を続けて行かざるをえないのである。よって真正な「善・悪」はどこにあるのか?本当にあるのか?という問いに対しては、善・悪が真正なものとなるのは、それらが私たちによって共有可能な理由に基づいて合意されたものであるとき、そうなると言えるのである。」

 

上記のように倫理学の先生方も真正な善悪がいまだ分からずに苦悩しておられるのですね。

「道徳的な善悪はなぜ私たちにとって必要なのであろうか。また私たちはなぜそうした善悪を探求するのであろうか。」と言う疑問の答えは「みんなの幸せの為」と言う事です。正しい事はすべて「みんなの幸せ」に直結するのです。ですから幸せを希求する私たち人間はどうしても真正なる善・悪を理解しなければならないのです。

 

また「善・悪が真正なものとなるのは、それらが私たちによって共有可能な理由に基づいて合意されたものであるとき」とも書いてあります。そして「共有可能な理由」もまた「みんなの幸せ」しかないでしょう。その群れ仲間にとって最も価値ある選択の理由、根拠とは「いかにしたらみんなが食べて生きていけるのか(種族保存)」であり、また「いかにしたらみんなが安心して幸せに暮らせるだろうか」と言う事なのです。それらを最大の理由、根拠として「これが善い」と私たちは選択するのです。

 

アリストテレスは、すべての人が究極的に希求する最高の善きもの、それは「幸福である」と定義しています。私たちの諸々の活動・希求・目的の最上位に来るのが「最高善」です。また彼は個人的な「最高善」よりも、集団的な、国(ポリス)の「最高善」に到達し保全する方が、より大きく、より究極的である、と言及しています。つまり「共同体である国家の目的こそが最高善であり、それは国民みんなの幸せである」と言う事なのです。

 

しかし何故アリストテレスはそこまで分かっていながら『最高善である「みんなの幸せ」に合致することを善と言うのである』と定義し、明言することが出来なかったのでしょうか。人類最高の賢人の一人であるアリストテレスが「善の定義」を行ってさえいれば後々の哲学者たちが「真正な善悪とはいったい何か?」などと苦しむこともなかったのです。

何故、彼らが善の定義が出来なかったのかを考えてみれば、その理由の一つは当時のギリシャにおいては「真・善・美とは何かとても神秘的で崇高なもの」として考えられていて、善とはただの「選択問題の理由、根拠なのだ」と考えることが出来なかったからではないでしょうか。善とはただの社会的問題に関するものなのです。

 

哲学の最高の目的はやはり「真の善とは何か?」を探究し、究明することなのです。善とは何か?とは、善の意味とは何か?であり、善の意味とは、つまりその理由、根拠を示すことなのです。そしてその絶対的な理由に合致していることを「善である」と言うのです。つまり善とは何か?と言う問いの答えは「絶対的な理由、つまり絶対善に合致している事である」と言うことなのです。

そしてまた最高善とは絶対善と言う事なのです。アリストテレスが言ったように私たちの最高に善い事、究極的に善い事とはやはり「みんなの幸せ」なのです。「みんなの幸せ」こそが最高の善であり、それ以外にはないのです。それは対するものが絶えていると言うことです。つまりそれは絶対善ともいえるのです。私たちが「安心して幸せに暮らせること」これこそが最高善であり、それは絶対善なのです。そしてそれを私たちは無意識的に「みんなの為」と言っているのです。

 

「みんなの為になることは正しい事である」これに対して反対する人はいないでしょう。つまりそれは私たちにとっては「道理、常識」なのです。ですから「みんなの為」になる、適う、合致することは常に正しいと言えるのです。「みんなの為」とは「みんなが安心して幸せに暮らせる事」です。つまりアリストテレスが言う最高善「みんなの幸せ」と言う事なのです。私のような凡人の言う絶対善はなかなか信じてもらえませんが、人類最高の賢人の一人であるアリストテレスも究極の善とは「国民みんなの幸せ」と定義しているのです。

 

 私たちにとって最高に善いものとはやはり「群れ仲間の維持、保存」であり、それは「群れ仲間の安心・幸せ」なのです。それに合致することを私たちは常に「これが善い、これが正しい」と選択しているのです。

 

善とはいったい何なのか? この難問のその答えは絶対善である「みんなの為」に合致することなのです。絶対善である「みんなの安心・幸せ=みんなの為」になる、適う、合致することを私たちは「これが善である、これが正しい」と選択するのです。

 

「絶対善とはみんなの為」、ただこれさえ理解できれば大学の倫理学の先生方も「真正な善悪とは何か?」と言う難問の苦悩から解放されるのです。そして常に真理とはシンプルなものなのです。「絶対善とはみんなの為」これこそが真理なのです。