菅義偉という政治家 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 菅が衆議院、私が参議院であったが、二人とも自民党所属の国会議員であり、部会をはじめ自民党の会議ではよく一緒になった。初当選は、菅が1996年、私が2001年、生年月日も近く、ともに1948年の生まれで、私の方が1週間だけ年長である。

 菅は、2006年9月に第一次安倍内閣の総務大臣に就任する。私は、その直前まで参議院の外交防衛委員長を勤めていたが、10月には参議院自民党政策審議会長に就任する。

 参議院自民党は、片山虎之助が幹事長だったが、総務大臣も経験しており、新人大臣など歯牙にも掛けない重みを持っており、新人総務大臣にとっては「目の上のこぶ」のような存在であった。

 「気配りの人」である菅は、総務省の方針について説明し、了解を得るために、片山幹事長室をよく訪ねていた。そして、片山からときどき叱責を受けていたが、片山は大声なので、数メートル離れた私の政審会長室まで怒声が聞こえてくる。片山との会談の後、菅は、私の部屋に立ち寄り、ストレス解消とばかりに、お茶を飲んで帰っていく。実際、総務省関連の法案について、私が参議院との調整の労を執ったこともある。政審会長室には、総務省の役人が頻りに出入りするようになった。

 参議院選挙の敗北を受けて、2007年8月に安倍は内閣改造を行うが、私は厚生労働大臣として入閣する。安倍首相は、菅を内閣官房長官と考えていたようだが、事務所問題が取りざたされたため、菅の入閣はなかった。菅は党の選挙対策の責任を任せられたが、菅との緊密な関係は続き、私は、菅のみならず、菅の息のかかった自民党候補の応援に走り回ったものである。

 2012年12月の総選挙に勝利して、自民党は政権に復帰し、安倍第二次内閣が発足し、菅は官房長官に任命され、今日に至っている。

 参議院議員を辞めて浪人生活に入ってから半年後に、猪瀬都知事の辞任により、都知事選挙が行われることになった。立候補の決断をするように、森元首相をはじめ、多くの仲間が私を後押ししたが、菅も当然その1人であった。

 都知事になってからも、菅とは緊密な関係が続いた。緊急を要するときは、電話をする。そして、必要ならば、首相官邸に出向いていく。安倍総理と会いたいときも、菅がアレンジする。おかげで、様々な案件に関する国との調整は上手くいった。

 都知事になってからも、菅とは何度も2人で食事をしたが、そのことは一切マスコミには公表しなかった。菅は東北人らしく、人前では寡黙であるが、二人きりのときには、よく喋った。食事のときの会話は、都政から国政まで政策論議につきた。たとえば、菅が打ち出した「ふるさと納税」は、都知事の立場からは反対せざるをえなかったし、その他の政策でも見解の相違は多々あったが、総務大臣と政審会長のときに築いた信頼関係が揺らぐことはなかった。

 私の辞任後、都知事選挙になったが、立候補して自民党の方針に反旗を翻した小池知事に対しては、菅は不快感を持ち続けており、コロナ対策でもその不信感は消えてない。私が都知事の時代とは雲泥の差である。