フランス留学時代の思い出 | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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  ノートルダム寺院が火災で大きな被害を受けた。若い頃、パリで研究生活を送っていた頃、毎日眺めていた風景である。私の青春のシンボルなので、悲しいかぎりである。

 東京大学法学部を卒業して研究者として勉強を続けるが、研究対象としてフランスを選んだ。論文の対象を、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期のフランスと決めた。

 ところが、当時の日本には、指導してくれる先生もいないし、文献資料も乏しかった。そこで、返事など期待せずに、この分野で最高峰のパリ大学の教授に指導してくれないかと、拙いフランス語で手紙を書いたのである。すると、「すぐにソルボンヌの大学院に入学せよ」という返事が届いてしまった。

 万事休す。フランス語を読むことは出来ても、会話能力はゼロに近い。何とかしなければと、日仏学院に入学し、フランス人の先生に会話を習うことにした。若い研究者でお金もなく、私費留学など無理である。

そこで、フランス政府給費留学生の試験を受けることにした。試験は、くじ引きでテーマを選び、自分の意見を論述するというバカロレア的なもので、そのようなテストなど経験がなく、悪戦苦闘した。しかし、何とか合格できて、フランスに向かう飛行機に乗ったのである。

 本来なら、フランス語にも磨きがかかり、フランス政治史の研究も一定の水準にまで達して、資料探索のため、パリに行くというのが正当な姿であろう。ところが、私の場合、語学力も不足、政治史研究も不十分といった状況で、いわばフライングでフランスに着いてしまったのである。

 まずは語学研修のためグルノーブル大学に行かされが、レベルが低すぎたので、面白くないし、発音の悪い非フランス人と一緒では言葉は上手くなれない。教室を脱出し、町に出た。

そこで、フランスの学生と仲良くなり、毎日彼らと遊んだりして、過ごした。そのお陰で、会話能力は急速に向上した。このときのフランスの仲間とは、今でも付き合っている。

 グルノーブル大学での語学研修(私に言わせれば、フランス人仲間とのヴァカンス)を終えて、秋にはパリ大学(Paris 1)大学院に入学した。週に一度、指導教官のセミナーに出るだけで、あとは外務省、国民議会、元老院の資料室に通って、1920年代、1930年代の資料の閲覧に明け暮れる毎日となった。どの資料室でも、フランス人の担当者は親切で、たとえば、国民議会では、ヴェルサイユ宮殿に収蔵されている資料を、毎週トラックで運んで持ってきてくれた。

 その国民議会では、議員専用の図書室も使わせてもらったが、天井を見ると、ドラクロアの天井絵が堪能でき、ルソーの民約論の初版本も目の前にあった。このような豪華な雰囲気で勉強できて楽しい限りであった。また、その図書室で、ドゴール将軍と共に戦争中のフランスを生きた元国会議員たちとも知り合いになり、貴重な証言を得ることができた。歴史の本でしか知らなかった政治家たちに会えたことも、楽しい思い出である。