榎本武揚のプラグマティズムと明治国家の偉大さ | 舛添要一オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 榎本武揚といえば、五稜郭に立てこもり、幕臣として明治新政府に最後まで抵抗した人物として知られている。しかし、土方歳三のような華々しい戦死を遂げたわけでもなく(土方のような悲劇の主人公を日本人は好む)、箱館戦争後は、明治政府に出仕し、大使や閣僚までも勤めたことが、「二君に仕え、節操がない」と批判された。その典型が福沢諭吉であり、「痩我慢の説」で、勝海舟とともに断罪したのである。

 しかし、国家にとって有益な人材を、体制が変わっても活用することは、国益にかなう。敵を処刑せずにはすませない外国では、こうはいかないであろう。榎本を救ったのは、新政府遠征軍陸軍参謀の黒田清隆である。

 榎本は、オランダ留学時代に入手した『海律全書』を「兵火に焼くのはしのびない。日本海軍のために使ってほしい」と差し出すが、黒田もまた、頭を丸めて新政府首脳に助命を嘆願したのである。それは、榎本こそ欧米と対等に渡り合える人物と見越してのことであった。

 福沢の批判もあり、また勝海舟と違って榎本は自ら宣伝するのを嫌ったため、著書や記録もあまり残されていない。そのため、勝のようには、その生涯があまり広く国民に知らされていない。

 榎本隆充・高成田亨編『近代日本の万能人、榎本武揚』(藤原書店、2008年)は、榎本没後百周年を記念して出版されたもので、三十人あまりの著者が寄稿している。とくに、明治政府出仕後の活躍について多くの言及がされており、その点では、まさに榎本武揚の全体像が記されていると言えよう。

 榎本の発想の原点はオランダ留学であり、そこで見てきた西欧列強の力に日本がどうすれば追いつくかといった強烈な問題意識があったのである。軍事、法学、地質、冶金、電気など、ありとあらゆる分野を貪欲に学び、その知識を日本の近代化に役立てたのである。まさに欧米と対等に交渉できる人物が榎本だったのである。

 NHKの大河ドラマなどで、幕末明治維新が注目されているが、榎本武揚への評価は十分になされていない。彼は、もっと注目されてよい人物である。そしてまた、明治国家の偉大さは、このような人物に縦横無尽の活躍の場を与えたことにある。時代が、大正、昭和と進んでいくにつれて、日本は暗黒への道を歩んでいく。なぜそうなったのか、榎本のようなプラグマティズムに欠けたからではないだろうか。