山県有朋(1838年6月14日〜1922年2月1日)の人気はすこぶる低い。陰険、権謀術数、反動といったイメージがつきまとう。国葬(1922年2月9日)のときにも参列者は少なく、それは、たとえば1ヶ月前に死んだ大隈重信(1838年3月11日〜1922年1月10日)の国民的人気とは対極的である。
2月10日付けの新聞は「大隈侯は国民葬。きのふは『民』抜きの『国葬』で幄舎の中はガランドウの寂しさ」という見出しで記事を書いた。
この「嫌われ者」のイメージは、松本清張『象徴の設計』(1976年)、半藤一利『山県有朋』(1990年)などに記されている。山県有朋研究は、岡義武『山県有朋』(1956年)、藤村道生『山県有朋』などがある。
これらの著者が参照しなかった第一次資料を細かく読み込み、誤った解釈を一つ一つ訂正していった名著が伊藤之雄『山県有朋、愚直な権力者の生涯』(2009年)である。
従来のイメージに大きな修正を加える研究であり、正統派の歴史学である。今後は本書を超える山県有朋研究は、容易には出現しないであろう。
歴史資料の綿密な研究とともに、著者が強調したのは、山県が時代とともに成長し、変化していった点である。人間は誰であれ、そうなのであるが、山県の場合、あまりにもネガティブな評価が多く、そのため固定したイメージがその生涯を通じて変わっていないような取り扱いを受けてきた。
著者は、時代ごとの山県の変化を資料に基づいて、説得的に語っていく。その上で、山県有朋の人生を「愚直」という言葉で表現している。そして、列強への不信や軍拡への熱意、政党や議会政治への嫌悪感は一貫していたことも強調する。
また、山県の資質として、「状況がどうしようもないと判断したとき、じっくりと時を待つことができること」をあげている。このように、政治家山県有朋の全体像を、その時代背景の中で、また原敬など他の政治家との関わりの中で浮き彫りにしていく手法は見事である。
私も幕末明治維新や憲法を研究する者として、たとえば明治初期の文民支配についての指摘などは、興味深く読んだ。
伊藤によれば、山県は「信念の人であり、時勢の変化を感知するのが少し遅く、後継者に恵まれなかった」が、「自分の信念からくる国家への責任感から政治関与を続けざるをえず、権力を保持することになった」という。
そして、「太平洋戦争への道は、山県陸軍から必然的に導き出されたものではない」ことを強調する。この伊藤の主張は、「『大日本帝国は山県が滅ぼした』と言っても、かならずしも過言ではない」という半藤一利の評価とは異なる。